主神としての地位を確固たるものとしたマルドゥクだが、その権力を更に推し進めたのがネブカドネザル1世による「マルドゥク像の奪還」であった。古代メソポタミアにおける都市国家間の戦争は、敵対都の主神、すなわち神像を捕虜にすることで終結したからである。当時のバビロンはエラム人の流入によって首都を陥落させられていたため、マルドゥク像を取り戻すことはバビロンの人々にとって悲願であり、そしてその悲願を達成したことでバビロンの支配権は安定を見せ、マルドゥク自身の神性も高まったということである。
マルドゥク像の放浪はこの後も続き、アッシリアの攻撃によって一時は神話上での立場すら危うくなるも、マルドゥク信仰は新バビロニア時代からアケメネス朝の頃まで続いた[2]。 至高神として祭られることとなったマルドゥクは、大々的な祭儀などにおいても重要な存在となっていき、特に春に行われる「バビロンの新年祭」はそうした祭儀の中でも最大の儀式であったという。祭りは11日間に渡って催される、主に豊穣祈願を示す神事であった。祭りの最中、マルドゥク像は都市の余所にある「アキトゥの家」と呼ばれる施設に移され、4日目には『エヌマ・エリシュ』の朗読が行われ、最終日になると盛大な行列を伴って凱旋したという[2]。 旧約聖書によれば、マルドゥク信仰の降盛を逆説的に知ることができる。多くの場合、マルドゥク像と言う偶像を神として崇めるのは愚行であるとされ、信仰の対象となる像がどんなに立派であっても神官たちが利益を取るための道具でしかないように描かれた。また、マルドゥクの別名ベール(主)という称号についても悪魔の名称に用いられるなどしている。しかし、こうした場面で語られる豪華な神殿や贅を尽くした祭儀の様子は、当時のメソポタミアの繁栄と強大なマルドゥク信仰があったことを示しているに他ならない[7]。
バビロンの新年祭
評価
出典・注釈
出典[脚注の使い方]^ a b c d 池上(2006)p.192
^ a b c d e 池上(2006)p.88
^ a b c d e 池上(2006)p.86
^ Mesopotamia no kamigami to kuso dobutsu.
^ 岡田・小林(2008)p.318
^ a b c d e f 池上(2006)p.87
^ a b 池上(2006)p.90
^ ⇒The Fifty Names of Marduk
(『マルドゥク神の50の名前』(原文はエフライム・アヴィグダー・スパイザー(アメリカの考古学者))による)
^ a b 池上(2006)pp.91-92
注釈^ 天命の粘土板:神々や個々人の寿命・役割などが刻まれていて、大抵は最高神が持つ。「天命の印」を持ち主が押すことで、書き込まれた内容が有効になると信じられていた。粘土版と印象の文化を持つ、古代メソポタミアならではの発想による代物である。 岡田・小林(2008)p.45
^ こういった形容は彼の聡明さを示したもの。 池上(2006)p.86
^ アサルヒヒ:シュメールの呪術と清めの神。エアの長子で後代ではマルドゥクが持つ50の異名の1つとされた。 池上(2006)p.174
参考文献
池上正太 編『オリエントの神々』新紀元社〈Truth In Fantasy 74〉、2006年12月。
岡田明子/小林登志子 編『シュメル神話の世界-粘土版に刻まれた最古の世界-』中央公論新社、2008年12月。
シュメール神話
アン
アプスー
エンリル
エンキ
エレシュキガル
イナンナ
ウットゥ
ナンム
ニンフルサグ
ナンナ
ニンガル
ニンクルラ
ニンサル
ニンリル
ニヌルタ
ウトゥ
メソポタミア神話
アヌ
アヌンナキ
アシュナン
アダド
アムル(英語版)
アンシャル
ベス
エア
エッリル
エレシュキガル
イシュタル
タンムーズ
キ
キングー
キシャル
ラフム
ラハム
マルドゥク
ムンム
ナブー
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