マルティン・ボルマン
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しかし他の党幹部の反発が強く1944年には解散した[28][30]

1943年2月のスターリングラード攻防戦の敗北以降、ヒトラーは総統大本営に引きこもりがちになった。以降、ヒトラーが主要幹部の中で定期的に会うのはボルマン、国防軍最高司令部総長カイテル元帥、国防軍最高司令部作戦本部長アルフレート・ヨードル上級大将の三人だけになった。それ以外は稀に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング帝国元帥、軍の各司令官たちが現れるぐらいであった。他の来訪者はヒトラーがどうしても直接会う必要がある者だけに限られた。そしてその判断はボルマンに一任されていた。また、総統大本営へ入るためにはボルマンの許可証が必要であった[31]。そのためボルマンの権力はドイツの戦況悪化、ヒトラーの隠遁化とともに増していくこととなった。

このようなボルマンの立場、また彼の上司に媚びへつらう一方で部下に冷酷に接する態度のために、ボルマンは他の党幹部や国防軍上層部から非常に疎まれていた。ヘルマン・ゲーリングは、ニュルンベルク裁判において「ヒトラーがもっと早く死んで、私が総統になっていたら真っ先にボルマンを消していただろう」と発言している。アルベルト・シュペーアも「ヒトラーがボルマンについて少しでも批判的な事を言ったなら、彼の敵は全員その喉首に飛びかかっただろう」と述べている[32]。また副官に「スカートをはいた物なら何でも追い回す」と評されたその女癖の悪さから、エヴァ・ブラウンもボルマンをひどく嫌っていた[33]

1941年以降の反ユダヤ主義の命令文書にはほとんど例外なくボルマンの副署があり、ホロコーストにも重大な責任を負う。ユダヤ人を東部に移送する命令や親衛隊の下にユダヤ人の管理を強化する命令、ユダヤ人虐殺を隠ぺいするための命令書にサインしている[34][35]

1944年9月25日にはヨーゼフ・ゲッベルスの下に創設された国民突撃隊の政治・組織指導者に任じられた[29]

ドイツの敗色が濃くなってきてもボルマンの権力欲は衰えなかった。1944年12月にはボルマンの最大のライバルである親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがオーバーライン軍集団司令官に任じられ、さらに1945年1月にはヴァイクセル軍集団の司令官として、ソ連赤軍との戦闘を指揮した。しかしまともな軍事教養をもたないヒムラーにこのポストを与えるのは異常な人事であり、案の定ヒムラーは無能な指揮官ぶりを示して更迭されることとなった。この件でヒムラーの権威に大きく傷が入ることとなったが、参謀総長ハインツ・グデーリアン上級大将によるとこれはボルマンがヒトラーに入れ知恵した結果の人事であったという[31]

1945年4月16日、ソ連軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動し、ベルリンの戦いが始まった。4月23日、先にベルリンを脱出していたヘルマン・ゲーリングがベルヒテスガーデンからベルリンの総統地下壕に向けてヒトラーに指揮権の委譲を要求する電報(英語版)を送った。これは国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードルから「総統は自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任と言った」という連絡を受けたためだった。電報を受けたボルマンは「ゲーリングが裏切った」とヒトラーに報告した。結果、ヒトラーは激怒し、ゲーリングの解任を決定した。ただしボルマンが要求したゲーリングの銃殺刑をヒトラーは却下している。ボルマンは独断でベルヒテスガーデンにいる親衛隊将校にゲーリングの逮捕命令を出している[36][37]
最期

4月30日、ヒトラーは遺言でボルマンを遺言執行人、そして「ドイツ国党大臣(Reichsparteiminister)」に任命して自殺した。

5月1日23時、官庁街防衛司令官ヴィルヘルム・モーンケが中心となって、いくつかの脱出グループを編成して、総統地下壕から順次脱出を開始した。ボルマンはヒトラーの主治医であるルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー、ヒトラーユーゲント全国指導者アルトゥール・アクスマンと共に第2グループとして地下壕を出発した。Uバーンの地下トンネルを通ってフリードリヒシュトラーセ駅から地上へ出た。そこからシュプレー川を渡るため戦車を先頭にしてヴァイデンダム橋(ドイツ語版)を渡ろうとしたが、戦車はすぐにソビエト赤軍の攻撃で撃破され、脱出グループの何人かが巻き添えで死んだ。ボルマンを含む残りのメンバーは何とか川を渡って、線路に沿ってレアター駅方面へ向かったが、そこでアクスマンは副官と共に他のメンバーと分かれて反対方向へ進むことにした。しかし、赤軍の警戒が厳しく発見されそうになったためボルマン達の方へ戻ったところ、鉄道操車場近くの橋の上でボルマンとシュトゥンプフエッガーの遺体を発見した。しかし、遺体の死因を確認するどころでは無く、すぐにその場から立ち去っている(なおアクスマンはベルリンから脱出して12月に連合軍に逮捕された)。

戦後、「総統官邸から北に数キロのヴァイデンダム橋付近で両名の遺体を目撃した」という証言がアクスマンらにより複数発表された。発掘が行われたが、それらしき遺体は発見できなかった。またボルマンと共に脱出を図ったハインツ・リンゲも「ボルマンが砲撃に巻き込まれるのを見た」と証言している。しかし、遺体を発見できなかったソ連を含む連合国はボルマンの死亡を認めず、ニュルンベルク裁判では欠席裁判のまま1946年10月1日に死刑判決が下された。1954年10月にはベルヒテスガーデン地方裁判所はボルマンの死亡を宣言した。

その後も彼の遺体は見つからず、1960年にアルゼンチンで逃亡生活中にモサドに拘束されたアドルフ・アイヒマンが、イスラエルでの裁判中に「彼は南米で生きている」と証言したことで、「ブラジルへ逃亡しナチス残党を集めてナチスの再建を図っている」という噂がまことしやかに語られるようになり、ブラジルでは現地のマスコミが、ドイツ人が多いことで有名なブルメナウなどの南部を中心に「ボルマンの居所をつかんだ」というような報道が度々なされることとなった。また、チリにある「『コロニア・ディグニダ』にかくまわれている」、との噂まであった。

1972年12月、ヴァイデンダム橋から遠くないレアター駅近くの工事現場で2体の人骨が偶然発見された。歯科医・法医学者・形質人類学者が鑑定した結果、シュトゥンプフエッガーとボルマンのものであることが確認された。遺体の口にはカプセルのガラス片と青酸の痕跡が認められた。また、1998年にはDNA鑑定が行われ、人骨がボルマンのものであることが再確認された。その後遺骨は火葬され、バルト海に散骨された。
人物

身長は170センチ。ナチ党政権下の享楽的な生活で肥満し「ずんぐり」と形容される体型になった
[38]

ヒトラーを除く他のナチ党政権幹部のほとんどから嫌われた[38]。ゲーリングやヒムラーは彼の排斥を試みたが、上記の基金の責任者としてナチスの資金を牛耳っていたのがボルマンであったため失敗している[39]


ヘビースモーカーだったが、タバコ嫌いのヒトラーの前では決して吸わなかった。吸うときはトイレで吸ったという[40]

カメラで撮られることを嫌い、公表される写真にできるだけ顔を出さないようにしていたため、国民からの知名度は低かった[39]

家族

ナチスの幹部についてしばしば評される「職場では冷酷残忍、家庭では良き夫」という言葉のとおり、ボルマンもまた家庭では良き夫、優しい父親だった。

ボルマンはゲルダ・ブーフと結婚し、10人の子供がいた[41]。ただ、ボルマンは妻の他にも愛人を持っていた上に、その事実を妻に隠そうとはしなかった。妻はボルマンが「自分の浮気は国家社会主義のより大きな利益につながる」という説明を信じており、自分と愛人を交互に出産させるようにして、いつでも動員できる妻を持つようボルマンにすすめている[33]


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