マルティン・ボルマン
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さらに1930年8月25日にはこの組織が党全体の救済基金部門(ドイツ語版)となり、ボルマンがその部長に任じられた[10]。この任務をへて突撃隊財政支援の専門家と化したボルマンは裏方の事務に徹して確実に勢力を拡大させていく[17]

1929年9月2日にはナチ党の有力者ヴァルター・ブーフの娘ゲルダ(ドイツ語版)と結婚。二人の結婚式にはアドルフ・ヒトラーも立会人として出席している[18]。1930年4月14日に長男を儲けたボルマンは、ヒトラーの名前と自分の名前に因んでアドルフ・マルティン(ドイツ語版)と名付けた[19]
ヒトラーの側近
ヘスの副官時代1938年9月6日、ヒトラー(左端)に従って歩くヘス(手前)とボルマン(奥)。

1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーとナチ党が政権を掌握。ボルマンは1933年7月4日に副総統(ルドルフ・ヘス)個人秘書兼幕僚長(Personlicher Sekretar und Chef der Stabskanzlei des Stellvertreters des Fuhrers)に任じられた[10]。これを機にボルマンは救済基金の事務所からヘスの事務所へ移ることとなった[20]。以降ヘスが英国に単独飛行する1941年までヘスの秘書という立場でヒトラーの側で活動していくこととなる。

アルフレート・ローゼンベルクはヘスの秘書をしていた時期のボルマンについてこう回顧している。「ヘスを訪問すると、ボルマンの姿を時折見かけたが、後にはほとんど一緒にいた。この数年総統昼食会に出ていたが、後にはゲッベルスの横にボルマンがいつも姿を見せていた。総統は明らかにヘスにいらついており、ボルマンが代わりに命令を処理していた。この時点から彼の『なくてはならない存在』を目指した活動が始まった」[20]

彼は絶えず鉛筆とメモ用紙を持ってヒトラーの言葉をメモに取っていた。バルドゥール・フォン・シーラッハがそのメモは何に使うのかとボルマンに聞くとボルマンは「総統が考えていることを常に把握しておきたいからだ」と答えたという[21]

またボルマンは1933年7月3日に「アドルフ・ヒトラー・ドイツ産業界基金(ドイツ語版)」の責任者に任じられていた[22]。これはクルップなどドイツ産業界がヒトラーに献金を行うために作った機関である[22]。この機関の金について会計報告は不要とされていた[22]。金銭に無頓着なヒトラーに代わってボルマンがこの金を預かっていた[22]オーバーザルツベルクのヒトラー山荘ベルクホーフの改築もボルマンが請け負い、ヒトラーから高く評価された[23][22]

形式的な肩書も増強されていった。1933年10月10日にはナチ党全国指導者の一人に任じられた[6]。さらに1933年11月12日の選挙によりナチ党の国会議員になった[10]。1935年9月7日には帝国農業審議会(Reichsbauernrat)のメンバーとなった。1937年1月30日には親衛隊に名誉隊員として入隊し、親衛隊中将(SS-Gruppenfuhrer)の肩書を与えられた(隊員番号ははじめ278,267だったが、1938年にハインリヒ・ヒムラーから特別な隊員番号555を与えられた。また階級は1940年7月24日に親衛隊大将に上っている)[6]

しかしながらヘスの秘書時代のボルマンは他の党幹部からはさほど関心を払われる存在ではなかったようである。ヨーゼフ・ゲッベルスもこの時期の日記にはボルマンについて「ボルマンという名前のある党員は」といった書き方をしている[24]
ナチ党官房長1940年6月、東プロイセン総統大本営狼の巣」。最前列左からオットー・ディートリヒヴィルヘルム・カイテル元帥、ヒトラー、アルフレート・ヨードル将軍、ボルマン。1941年11月28日、ベルリン。ヒトラー(最前列中央)とボルマン(最前列左)。1941年、マリボル。ヒトラー(中央)とボルマン(ヒトラーの後ろ)。

第二次世界大戦勃発前後はまだ地位を固め始めたばかりで国家政策や党の方針決定に影響を持ってはいなかったが、1941年5月10日に副総統ヘスが独断で和平交渉のためにイギリスへ飛び去った後にその地位が変わってくる。5月11日にヘス単独飛行を聞いたヒトラーははじめ秘書ボルマンを「共犯者」と疑い、ボルマンを招集したが、ボルマンはすぐにヘスを批判して「無実」であることを証明した[25]。この件を機にボルマンはヘス夫妻に因んで名前をつけた次男ルドルフと長女イルゼの名前をそれぞれヘルムートとアイケに変えさせている[5]

さらにボルマンは後継の副総統の座を狙ったが、5月13日にヘス単独飛行の件で党幹部がオーバーザルツベルクの山荘に招集され、この際にヘルマン・ゲーリングがヒトラーに直談判してボルマンの副総統就任に反対の意をはっきりと示した。ヒトラーはボルマンの副総統就任はあり得ない事をゲーリングに明言している。結局、副総統の事務所は党官房(Partei-Kanzlei der NSDAP)と名を改められ、ボルマンはその責任者である党官房長に就任することとなった。副総統の地位は保留されたものの、代わりに党官房長に任命されたボルマンは大きな影響力を得るに至る[26]。当時、ヒトラーはドイツ軍最高司令官として、軍務に専念するようになっており、党務にまでとても手が回らなくなっていた。そのため、党の運営は事実上ボルマンにより掌握される事となった。また党組織のみならず、軍部や行政機構にも影響を及ぼすようになっていった[27]

1941年5月29日、国務大臣に列するとともに国防閣僚会議(ドイツ語版)の常任議員となる[28]

さらに党官房長や大臣職より地味であるが、より重要な物として総統の個人秘書的な立場を手に入れたことがある。この職位には初め名称がなく、1943年4月12日になってようやく「総統秘書及び個人副官(Sekretar und Personlicher Adjutant des Fuhrers)」という名称を冠された[27][29]。しかしこの地位を手に入れた事はボルマンにとって非常に大きく、ヒトラーの秘書として公私に渉り密接な関係を結ぶきっかけとなった。

秘書となったボルマンは、常に彼のそばを歩くようになり、菜食主義禁煙家であったヒトラーのために大好物の肉やタバコを控えるようにするなど徹底的にヒトラーに合わせた生活を送るようになった。また、ヒトラーの愛犬「ブロンディ」を用意したのもボルマンだった。こうしたヒトラーの影のように仕える奉仕ぶりや、ヒトラーがどの報告に目を通し、どの人間に会うかを決める権限が実質的にボルマンが有したため「ヒトラーの耳に情報が入るには、まずボルマンを介さなくてはならない」と揶揄されるようになった。情報を監督するためにヒトラーのプライベートな会話も逐一記録させていた。「ボルマン覚書」や「ヒトラーのテーブル・トーク」の名前で知られるこの記録はヒトラーやナチズムに関する一級資料であり、後にヒュー・トレヴァー=ローパーによって出版された。

ボルマンはヒトラーへの情報統制を制度化しようと試み、1943年1月には首相官房長官ハンス・ハインリヒ・ラマース国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥とともに「三人委員会(Dreimannerkollegiums)」を創設した。


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