マルティン・ボルマン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ヴァイマルの小学校を卒業した後、ヴァイマルの実科ギムナジウムに入学した[6]。14歳の時に第一次世界大戦が勃発した。ボルマンは1918年に陸軍第55砲兵連隊に入隊したが、前線には出ていない。彼はニュルンベルク将校の当番兵をしていた。軍での最終階級は砲兵二等兵だった[6][7]
第一次世界大戦後

戦後、継父の家には戻らず、メクレンブルクの大農場で農業助手として働くようになった[8]。まもなく農場主ヘルマン・フォン・トロイエンフェルス(Hermann von Treuenfels)に秘書・会計係としての能力を認められて、メクレンブルク、パルヒム(ドイツ語版)、ヘルツベルク(ドイツ語版)の農場の管理を任せられた。トロイエンフェルスはドイツ義勇軍の活動に深く共鳴しており、義勇軍兵士を次々と自分の農場に受け入れていた[9]。ボルマンは彼らの管理にもあたっていた[10][9]。またボルマン自身も1922年にゲルハルト・ロスバッハ(ドイツ語版)中尉率いる「ロスバッハ義勇軍」に入隊した。同義勇軍のメクレンブルク地区の部長兼会計責任者を務めた[11]。1922年12月にはドイツ民族自由党(DVFP)に入党している[10]

1923年5月31日夜、ロスバッハ義勇軍のメンバーの小学校教師ヴァルター・カドウ(英語版)がリンチ殺害された。カドウは義勇軍から「ボルシェヴィキのスパイ」であるとの容疑をかけられ、ルール地方のフランス占領軍に対する抵抗の英雄であったアルベルト・レオ・シュラゲター(ドイツ語版)を占領軍に密告したと疑われており、また義勇軍から借りた大金を返さず、会計責任者のボルマンと金銭的なトラブルを抱えていた。1923年7月にボルマンはカドウ殺害の犯人の一人として逮捕された。1924年3月12日にライプツィヒで他の逮捕者ルドルフ・フェルディナント・ヘス(後のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長)らとともに裁判にかけられ、禁固1年の刑に処された[10][12][13]

1925年3月に刑期を終えて釈放された[14]。ヘルマン・フォン・トロイエンフェルト所有のパルヒムの農場に帰り、農場管理の仕事に戻ったが、1925年5月にはこの職を離れることとなった[10]。フォン・トロイエンフェルトの夫人エーレンガルトに手を出して主人の不興を買ったのが原因とも言われるが、定かではない[15]
ナチ党入党

農場の仕事を失業した後、禁止されていた突撃隊の偽装組織「フロントバン(ドイツ語版)」に入隊。1926年から1928年にかけてヴァイマルで発行されていたナチ党の新聞『国家社会主義者(Der National Sozialist)』の会計係となった[10]。1927年2月に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した(党員番号60,508)[10][16]。1927年4月に突撃隊に入隊した(最終的に1931年12月18日に突撃隊大佐に昇進している)。1927年11月から1928年11月にかけてナチ党のテューリンゲン大管区の報道部長に就任した[10]。はじめボルマンが演説台に立った事もあったが、ボルマンは演説者としてはまったくの無能であり、落ち着きがなかったり、どもったりすることが多く筋道を立てて話すことができなかった[15]。ついにはボルマンが演説台に上がっただけで聴衆の嘲笑がおこるようになったため、党はボルマンに演説を禁止した[15]。そのためボルマンの演説を記録したテープは現存していない[15]。1928年4月から11月にかけてはテューリンゲン大管区の会計責任者となった[10]
救済基金責任者

1928年11月15日には突撃隊の最高司令部の中におかれた救済基金(共産党などとの殴り合いで負傷したが、治療費を出すことが出来ない同志のための金庫)部門に勤務した[17]。さらに1930年8月25日にはこの組織が党全体の救済基金部門(ドイツ語版)となり、ボルマンがその部長に任じられた[10]。この任務をへて突撃隊財政支援の専門家と化したボルマンは裏方の事務に徹して確実に勢力を拡大させていく[17]

1929年9月2日にはナチ党の有力者ヴァルター・ブーフの娘ゲルダ(ドイツ語版)と結婚。二人の結婚式にはアドルフ・ヒトラーも立会人として出席している[18]。1930年4月14日に長男を儲けたボルマンは、ヒトラーの名前と自分の名前に因んでアドルフ・マルティン(ドイツ語版)と名付けた[19]
ヒトラーの側近
ヘスの副官時代1938年9月6日、ヒトラー(左端)に従って歩くヘス(手前)とボルマン(奥)。

1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーとナチ党が政権を掌握。ボルマンは1933年7月4日に副総統(ルドルフ・ヘス)個人秘書兼幕僚長(Personlicher Sekretar und Chef der Stabskanzlei des Stellvertreters des Fuhrers)に任じられた[10]。これを機にボルマンは救済基金の事務所からヘスの事務所へ移ることとなった[20]。以降ヘスが英国に単独飛行する1941年までヘスの秘書という立場でヒトラーの側で活動していくこととなる。

アルフレート・ローゼンベルクはヘスの秘書をしていた時期のボルマンについてこう回顧している。「ヘスを訪問すると、ボルマンの姿を時折見かけたが、後にはほとんど一緒にいた。この数年総統昼食会に出ていたが、後にはゲッベルスの横にボルマンがいつも姿を見せていた。総統は明らかにヘスにいらついており、ボルマンが代わりに命令を処理していた。この時点から彼の『なくてはならない存在』を目指した活動が始まった」[20]

彼は絶えず鉛筆とメモ用紙を持ってヒトラーの言葉をメモに取っていた。バルドゥール・フォン・シーラッハがそのメモは何に使うのかとボルマンに聞くとボルマンは「総統が考えていることを常に把握しておきたいからだ」と答えたという[21]

またボルマンは1933年7月3日に「アドルフ・ヒトラー・ドイツ産業界基金(ドイツ語版)」の責任者に任じられていた[22]。これはクルップなどドイツ産業界がヒトラーに献金を行うために作った機関である[22]。この機関の金について会計報告は不要とされていた[22]。金銭に無頓着なヒトラーに代わってボルマンがこの金を預かっていた[22]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:124 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef