マルティン・ボルマン
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ヨーゼフ・ゲッベルスもこの時期の日記にはボルマンについて「ボルマンという名前のある党員は」といった書き方をしている[24]
ナチ党官房長1940年6月、東プロイセン総統大本営狼の巣」。最前列左からオットー・ディートリヒヴィルヘルム・カイテル元帥、ヒトラー、アルフレート・ヨードル将軍、ボルマン。1941年11月28日、ベルリン。ヒトラー(最前列中央)とボルマン(最前列左)。1941年、マリボル。ヒトラー(中央)とボルマン(ヒトラーの後ろ)。

第二次世界大戦勃発前後はまだ地位を固め始めたばかりで国家政策や党の方針決定に影響を持ってはいなかったが、1941年5月10日に副総統ヘスが独断で和平交渉のためにイギリスへ飛び去った後にその地位が変わってくる。5月11日にヘス単独飛行を聞いたヒトラーははじめ秘書ボルマンを「共犯者」と疑い、ボルマンを招集したが、ボルマンはすぐにヘスを批判して「無実」であることを証明した[25]。この件を機にボルマンはヘス夫妻に因んで名前をつけた次男ルドルフと長女イルゼの名前をそれぞれヘルムートとアイケに変えさせている[5]

さらにボルマンは後継の副総統の座を狙ったが、5月13日にヘス単独飛行の件で党幹部がオーバーザルツベルクの山荘に招集され、この際にヘルマン・ゲーリングがヒトラーに直談判してボルマンの副総統就任に反対の意をはっきりと示した。ヒトラーはボルマンの副総統就任はあり得ない事をゲーリングに明言している。結局、副総統の事務所は党官房(Partei-Kanzlei der NSDAP)と名を改められ、ボルマンはその責任者である党官房長に就任することとなった。副総統の地位は保留されたものの、代わりに党官房長に任命されたボルマンは大きな影響力を得るに至る[26]。当時、ヒトラーはドイツ軍最高司令官として、軍務に専念するようになっており、党務にまでとても手が回らなくなっていた。そのため、党の運営は事実上ボルマンにより掌握される事となった。また党組織のみならず、軍部や行政機構にも影響を及ぼすようになっていった[27]

1941年5月29日、国務大臣に列するとともに国防閣僚会議(ドイツ語版)の常任議員となる[28]

さらに党官房長や大臣職より地味であるが、より重要な物として総統の個人秘書的な立場を手に入れたことがある。この職位には初め名称がなく、1943年4月12日になってようやく「総統秘書及び個人副官(Sekretar und Personlicher Adjutant des Fuhrers)」という名称を冠された[27][29]。しかしこの地位を手に入れた事はボルマンにとって非常に大きく、ヒトラーの秘書として公私に渉り密接な関係を結ぶきっかけとなった。

秘書となったボルマンは、常に彼のそばを歩くようになり、菜食主義禁煙家であったヒトラーのために大好物の肉やタバコを控えるようにするなど徹底的にヒトラーに合わせた生活を送るようになった。また、ヒトラーの愛犬「ブロンディ」を用意したのもボルマンだった。こうしたヒトラーの影のように仕える奉仕ぶりや、ヒトラーがどの報告に目を通し、どの人間に会うかを決める権限が実質的にボルマンが有したため「ヒトラーの耳に情報が入るには、まずボルマンを介さなくてはならない」と揶揄されるようになった。情報を監督するためにヒトラーのプライベートな会話も逐一記録させていた。「ボルマン覚書」や「ヒトラーのテーブル・トーク」の名前で知られるこの記録はヒトラーやナチズムに関する一級資料であり、後にヒュー・トレヴァー=ローパーによって出版された。

ボルマンはヒトラーへの情報統制を制度化しようと試み、1943年1月には首相官房長官ハンス・ハインリヒ・ラマース国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥とともに「三人委員会(Dreimannerkollegiums)」を創設した。この委員会は総統に出された提案を総統に通すかどうかを審議するための機関であった。しかし他の党幹部の反発が強く1944年には解散した[28][30]

1943年2月のスターリングラード攻防戦の敗北以降、ヒトラーは総統大本営に引きこもりがちになった。以降、ヒトラーが主要幹部の中で定期的に会うのはボルマン、国防軍最高司令部総長カイテル元帥、国防軍最高司令部作戦本部長アルフレート・ヨードル上級大将の三人だけになった。それ以外は稀に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング帝国元帥、軍の各司令官たちが現れるぐらいであった。他の来訪者はヒトラーがどうしても直接会う必要がある者だけに限られた。そしてその判断はボルマンに一任されていた。また、総統大本営へ入るためにはボルマンの許可証が必要であった[31]。そのためボルマンの権力はドイツの戦況悪化、ヒトラーの隠遁化とともに増していくこととなった。

このようなボルマンの立場、また彼の上司に媚びへつらう一方で部下に冷酷に接する態度のために、ボルマンは他の党幹部や国防軍上層部から非常に疎まれていた。ヘルマン・ゲーリングは、ニュルンベルク裁判において「ヒトラーがもっと早く死んで、私が総統になっていたら真っ先にボルマンを消していただろう」と発言している。アルベルト・シュペーアも「ヒトラーがボルマンについて少しでも批判的な事を言ったなら、彼の敵は全員その喉首に飛びかかっただろう」と述べている[32]。また副官に「スカートをはいた物なら何でも追い回す」と評されたその女癖の悪さから、エヴァ・ブラウンもボルマンをひどく嫌っていた[33]

1941年以降の反ユダヤ主義の命令文書にはほとんど例外なくボルマンの副署があり、ホロコーストにも重大な責任を負う。ユダヤ人を東部に移送する命令や親衛隊の下にユダヤ人の管理を強化する命令、ユダヤ人虐殺を隠ぺいするための命令書にサインしている[34][35]

1944年9月25日にはヨーゼフ・ゲッベルスの下に創設された国民突撃隊の政治・組織指導者に任じられた[29]

ドイツの敗色が濃くなってきてもボルマンの権力欲は衰えなかった。1944年12月にはボルマンの最大のライバルである親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがオーバーライン軍集団司令官に任じられ、さらに1945年1月にはヴァイクセル軍集団の司令官として、ソ連赤軍との戦闘を指揮した。しかしまともな軍事教養をもたないヒムラーにこのポストを与えるのは異常な人事であり、案の定ヒムラーは無能な指揮官ぶりを示して更迭されることとなった。この件でヒムラーの権威に大きく傷が入ることとなったが、参謀総長ハインツ・グデーリアン上級大将によるとこれはボルマンがヒトラーに入れ知恵した結果の人事であったという[31]

1945年4月16日、ソ連軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動し、ベルリンの戦いが始まった。4月23日、先にベルリンを脱出していたヘルマン・ゲーリングがベルヒテスガーデンからベルリンの総統地下壕に向けてヒトラーに指揮権の委譲を要求する電報(英語版)を送った。これは国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードルから「総統は自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任と言った」という連絡を受けたためだった。電報を受けたボルマンは「ゲーリングが裏切った」とヒトラーに報告した。結果、ヒトラーは激怒し、ゲーリングの解任を決定した。ただしボルマンが要求したゲーリングの銃殺刑をヒトラーは却下している。ボルマンは独断でベルヒテスガーデンにいる親衛隊将校にゲーリングの逮捕命令を出している[36][37]


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