1925年3月に刑期を終えて釈放された[14]。ヘルマン・フォン・トロイエンフェルト所有のパルヒムの農場に帰り、農場管理の仕事に戻ったが、1925年5月にはこの職を離れることとなった[10]。フォン・トロイエンフェルトの夫人エーレンガルトに手を出して主人の不興を買ったのが原因とも言われるが、定かではない[15]。 農場の仕事を失業した後、禁止されていた突撃隊の偽装組織「フロントバン 1928年11月15日には突撃隊の最高司令部の中におかれた救済基金(共産党などとの殴り合いで負傷したが、治療費を出すことが出来ない同志のための金庫)部門に勤務した[17]。さらに1930年8月25日にはこの組織が党全体の救済基金部門
ナチ党入党
救済基金責任者
1929年9月2日にはナチ党の有力者ヴァルター・ブーフの娘ゲルダ(ドイツ語版)と結婚。二人の結婚式にはアドルフ・ヒトラーも立会人として出席している[18]。1930年4月14日に長男を儲けたボルマンは、ヒトラーの名前と自分の名前に因んでアドルフ・マルティン(ドイツ語版)と名付けた[19]。
ヒトラーの側近
ヘスの副官時代1938年9月6日、ヒトラー(左端)に従って歩くヘス(手前)とボルマン(奥)。
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーとナチ党が政権を掌握。ボルマンは1933年7月4日に副総統(ルドルフ・ヘス)個人秘書兼幕僚長(Personlicher Sekretar und Chef der Stabskanzlei des Stellvertreters des Fuhrers)に任じられた[10]。これを機にボルマンは救済基金の事務所からヘスの事務所へ移ることとなった[20]。以降ヘスが英国に単独飛行する1941年までヘスの秘書という立場でヒトラーの側で活動していくこととなる。
アルフレート・ローゼンベルクはヘスの秘書をしていた時期のボルマンについてこう回顧している。「ヘスを訪問すると、ボルマンの姿を時折見かけたが、後にはほとんど一緒にいた。この数年総統昼食会に出ていたが、後にはゲッベルスの横にボルマンがいつも姿を見せていた。総統は明らかにヘスにいらついており、ボルマンが代わりに命令を処理していた。この時点から彼の『なくてはならない存在』を目指した活動が始まった」[20]。
彼は絶えず鉛筆とメモ用紙を持ってヒトラーの言葉をメモに取っていた。バルドゥール・フォン・シーラッハがそのメモは何に使うのかとボルマンに聞くとボルマンは「総統が考えていることを常に把握しておきたいからだ」と答えたという[21]。
またボルマンは1933年7月3日に「アドルフ・ヒトラー・ドイツ産業界基金(ドイツ語版)」の責任者に任じられていた[22]。これはクルップなどドイツ産業界がヒトラーに献金を行うために作った機関である[22]。この機関の金について会計報告は不要とされていた[22]。金銭に無頓着なヒトラーに代わってボルマンがこの金を預かっていた[22]。オーバーザルツベルクのヒトラー山荘ベルクホーフの改築もボルマンが請け負い、ヒトラーから高く評価された[23][22]。
形式的な肩書も増強されていった。1933年10月10日にはナチ党全国指導者の一人に任じられた[6]。さらに1933年11月12日の選挙によりナチ党の国会議員になった[10]。1935年9月7日には帝国農業審議会(Reichsbauernrat)のメンバーとなった。1937年1月30日には親衛隊に名誉隊員として入隊し、親衛隊中将(SS-Gruppenfuhrer)の肩書を与えられた(隊員番号ははじめ278,267だったが、1938年にハインリヒ・ヒムラーから特別な隊員番号555を与えられた。また階級は1940年7月24日に親衛隊大将に上っている)[6]。
しかしながらヘスの秘書時代のボルマンは他の党幹部からはさほど関心を払われる存在ではなかったようである。ヨーゼフ・ゲッベルスもこの時期の日記にはボルマンについて「ボルマンという名前のある党員は」といった書き方をしている[24]。
ナチ党官房長1940年6月、東プロイセンの総統大本営「狼の巣」。最前列左からオットー・ディートリヒ、ヴィルヘルム・カイテル元帥、ヒトラー、アルフレート・ヨードル将軍、ボルマン。