1945年4月16日、ソ連軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動し、ベルリンの戦いが始まった。4月23日、先にベルリンを脱出していたヘルマン・ゲーリングがベルヒテスガーデンからベルリンの総統地下壕に向けてヒトラーに指揮権の委譲を要求する電報(英語版)を送った。これは国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードルから「総統は自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任と言った」という連絡を受けたためだった。電報を受けたボルマンは「ゲーリングが裏切った」とヒトラーに報告した。結果、ヒトラーは激怒し、ゲーリングの解任を決定した。ただしボルマンが要求したゲーリングの銃殺刑をヒトラーは却下している。ボルマンは独断でベルヒテスガーデンにいる親衛隊将校にゲーリングの逮捕命令を出している[36][37]。 4月30日、ヒトラーは遺言でボルマンを遺言執行人、そして「ドイツ国党大臣(Reichsparteiminister)」に任命して自殺した。 5月1日23時、官庁街防衛司令官ヴィルヘルム・モーンケが中心となって、いくつかの脱出グループを編成して、総統地下壕から順次脱出を開始した。ボルマンはヒトラーの主治医であるルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー、ヒトラーユーゲント全国指導者アルトゥール・アクスマンと共に第2グループとして地下壕を出発した。Uバーンの地下トンネルを通ってフリードリヒシュトラーセ駅から地上へ出た。そこからシュプレー川を渡るため戦車を先頭にしてヴァイデンダム橋
最期
戦後、「総統官邸から北に数キロのヴァイデンダム橋付近で両名の遺体を目撃した」という証言がアクスマンらにより複数発表された。発掘が行われたが、それらしき遺体は発見できなかった。またボルマンと共に脱出を図ったハインツ・リンゲも「ボルマンが砲撃に巻き込まれるのを見た」と証言している。しかし、遺体を発見できなかったソ連を含む連合国はボルマンの死亡を認めず、ニュルンベルク裁判では欠席裁判のまま1946年10月1日に死刑判決が下された。1954年10月にはベルヒテスガーデン地方裁判所はボルマンの死亡を宣言した。
その後も彼の遺体は見つからず、1960年にアルゼンチンで逃亡生活中にモサドに拘束されたアドルフ・アイヒマンが、イスラエルでの裁判中に「彼は南米で生きている」と証言したことで、「ブラジルへ逃亡しナチス残党を集めてナチスの再建を図っている」という噂がまことしやかに語られるようになり、ブラジルでは現地のマスコミが、ドイツ人が多いことで有名なブルメナウなどの南部を中心に「ボルマンの居所をつかんだ」というような報道が度々なされることとなった。また、チリにある「『コロニア・ディグニダ』にかくまわれている」、との噂まであった。
1972年12月、ヴァイデンダム橋から遠くないレアター駅近くの工事現場で2体の人骨が偶然発見された。歯科医・法医学者・形質人類学者が鑑定した結果、シュトゥンプフエッガーとボルマンのものであることが確認された。遺体の口にはカプセルのガラス片と青酸の痕跡が認められた。また、1998年にはDNA鑑定が行われ、人骨がボルマンのものであることが再確認された。その後遺骨は火葬され、バルト海に散骨された。 ナチスの幹部についてしばしば評される「職場では冷酷残忍、家庭では良き夫」という言葉のとおり、ボルマンもまた家庭では良き夫、優しい父親だった。 ボルマンはゲルダ・ブーフ
人物
身長は170センチ。ナチ党政権下の享楽的な生活で肥満し「ずんぐり」と形容される体型になった[38]。
ヒトラーを除く他のナチ党政権幹部のほとんどから嫌われた[38]。ゲーリングやヒムラーは彼の排斥を試みたが、上記の基金の責任者としてナチスの資金を牛耳っていたのがボルマンであったため失敗している[39]。
ヘビースモーカーだったが、タバコ嫌いのヒトラーの前では決して吸わなかった。吸うときはトイレで吸ったという[40]。
カメラで撮られることを嫌い、公表される写真にできるだけ顔を出さないようにしていたため、国民からの知名度は低かった[39]。
家族
弟のアルベルト・ボルマンもヒトラーの秘書として仕えている。ボルマン兄弟はヒトラーの信任を巡って絶えず暗闘を繰り返していた。
語録
ボルマン本人の発言
「沈黙が普通は一番賢い。人はどんなことがあってもいつも真実を言うべきなのではなく、十分な理由があってそれが本当に必要な時だけ言えばいい」(妻への手紙の一文)[42]
「僕は嫌というほど知らされた。醜さ、歪曲、中傷、おべっか、愚かさ、低脳、野心、虚栄心、金銭欲。要するに人間の嫌な面ばかり。ヒトラー総統が僕を必要とされている間はどうにもならないが、いずれ僕は政治から離れる。決心したんだ!」(1944年10月7日の妻へあてた手紙)[43]
人物評
「ボルマンが残忍なのは分かっている。しかし、あいつの関わった仕事には筋が通っている。ボルマンに任せれば、私の命令は直ちにどんな障害があっても実行される。ボルマンの報告書は実に正確に仕上げられているから、私はイエスかノーと言うだけで済む。他の連中なら何時間もかかる書類の山も、あいつなら10分で片づける事が出来る。六カ月後に私にこれを思い出させてくれ、とボルマンに頼んだら、実際に思い出させてくれると確信できる。」(アドルフ・ヒトラー)[44][45]
「彼は雄牛のような男だが、誰も次の事を忘れてはならない。ボルマンに難癖をつける者は、私に難癖をつけているのと同じだ。そしてこの男に逆らう者には誰であれ、私は銃殺命令を出す。」(アドルフ・ヒトラー)[46]
「ボルマンは大した権力を持っていた。ボルマンは私も知らないようなヒトラーの極めてプライベートな事を熟知していた。たとえばベルリンの総統地下壕では午前4時まで、場合によっては午前6時まで開かれるお茶会があった。その際にヒトラーが同席を認めたのは女性秘書たちとボルマンだけだった。このような場でしばしば重要な決定が下される事も少なくなかった。」(ヘルマン・ゲーリング)[47][48]
「ボルマンは総統を墜落させ、ナチの理想を墜落させた。彼はヒトラーに媚びへつらう、卑屈な下男だった。」(ポーランド総督ハンス・フランク)[49]
「彼は決して長い休暇を取ったりしなかった。自分の影響力が少なくなる事を絶えず気にかけていた。」(1969年、ヒトラー内閣軍需大臣アルベルト・シュペーア[50]
「複雑な問題を単純化し、簡単明瞭な形で提示し、その要点を明確な文章で短く表現する能力をボルマンは持っていた。手際はまことに鮮やかであったから、彼の圧縮されきった報告書にはその問題に対する答えが暗に含まれていた。