マルティニ・ヘンリー銃
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マルティニ・ヘンリー銃は、第一次世界大戦の様々な任務にも主に補助兵器として投入された。また航空機の搭乗員に支給され(戦争の初期段階で)、新開発の焼夷実包(英語版)を用いた観測気球や敵航空機、硬式飛行船の撃墜に用いられた。マルティニ・ヘンリー銃はまた、第一次世界大戦中、アフリカや中東の戦場で現地住民の補助部隊により用いられた。
日本におけるマルティニ・ヘンリー銃

日本におけるマルティニ・ヘンリー銃の配備は、慶応4年(明治元年、1868-1869年)の庄内藩での制式採用が最初の事例[7]で、後の明治4年(1871-1872年)には大日本帝国海軍移乗攻撃部隊である海兵隊にて本銃が採用された。当時陸軍ではブリーチ式後装銃のスナイドル銃が採用されていたが、移乗攻撃という戦法の性質上速射性能を重視した為に海兵隊では本銃が採用されたという[8]。移乗攻撃が時代遅れとされた為、海兵隊は1876年に一度解体されるが、後に海兵隊の任務を内包する形で臨時編成部隊として発足した海軍陸戦隊でも村田銃の登場までスナイドル銃や本銃が併用されたという。

日本では前述のピーボディ・マルティニ銃と共にマルチニーヘンリー銃またはヘンリーマルチニー銃、馬珍銃[9]等と呼ばれていた。

帝国海軍では索投擲銃として、当初は帝国陸軍より払い下げられた村田銃ベースの甲号擲弾銃の改造品を用いていたが、後にマルティニ・ヘンリー銃をベースとした索投擲銃を萱場製作所(カヤバ)や川口屋林銃砲火薬店(KFC)に製造させて制式採用、昭和20年の日本の敗戦まで用いられた。

先代
日本海軍の建軍日本軍制式小銃
1871-1880次代
村田銃

オスマン軍のピーボディ・マルティニ銃

オスマン帝国はマルティニ・ヘンリー銃をイギリスから購入することができず、アメリカ合衆国ロードアイランド州プロビデンスに所在したプロヴィデンス器具会社(英語版)から同一の兵器を購入した。これらは露土戦争 (1877年)に投入された[10][11]

第一次世界大戦前夜のオスマン帝国で義賊として名を轟かせた無法者のヘキモグルー(英語版)とその配下はピーボディ・マルティニ銃を愛用しており、現在のトルコにおいてもフォーク・ヒーロー(英語版)として、しばしばトルコ民族音楽(英語版)の題材として取り上げられている。
マルティニ・アクションの作動についてマルティニ・ヘンリー銃の閉鎖部マルティニ・ヘンリー銃。
A:装填準備。
B:装填完了、および射撃位置

ロックとブリーチはストックからのメタルボルト(A)によって保持されている。ブリーチはブロック(B)により閉鎖されており、ピン(C)が回転するとブロック後方が開放されて通過可能になる。ブロックの終端はケース(D)と共にナックルジョイントを構成するために丸められており、反動をピン(C)よりもある程度多く吸収する。

トリガーガードの下部のレバー(E)は、ケース内部のタンブラー(G)を突きだすとき、ピン(F)を働かせる。このタンブラーはノッチ(H)の中へ移動し、ブロックを押し上げるよう働くもので、レバーの位置に応じて、射撃位置にこれを引き上げるか、これを落下位置に引く。

ブロック(B)は、実包を薬室(J)に装填するのを補助する上面(I)に沿ってへこんでいる。実包を発射するために、ブロックは実包に対して発射機構(K)をセットするよう位置を引き上げる。発射機構(ストライカー)は、とがった金属製の撃針と、その周囲をとりまく螺旋形のバネから構成される。その先端は薬室に挿入された実包の電管へ打撃を与えるため、ブロック前面のホールを通過する。レバー(E)が前方へ動かされたとき、タンブラー(G)が回転し、アームの1本が連動する。そしてタンブラーをノッチ(H)が確実にロックするまで、スプリングが後退する。さらにバネは、タンブラーの下部の角に押し込まれるレストピース(L)によって保持される。

発射後、空薬莢はロックによって部分的に引き出される。エキストラクターはピン(M)を中心に回転する。これは2本の垂直の腕(N)を持っており、それらは空薬莢の後端の溝部に押され、元の位置である銃身脇に彫られた2条の筋へと押し戻される。レバーが前に押されるとき、エキストラクターのアームとベントアーム(O)は80°の角度を構成し、下がるブロックによって押しやられる。これにより直立するアームが少し空薬莢を引き抜き、より簡単に、完全な手動排莢が可能となる。

マルティニ・ヘンリー銃には固有の安全装置(英語版)は存在せず、代わりに機関部の右側面にピン(F)と連動して動く涙滴型のコッキング・インジゲーターが装備されており、射手はインジゲーターの向きを視認することで発射機構がコッキングされているか否かを確認できた[12]。安全装置に関しては、フリードリッヒ・フォン・マルティニが1868年に最初に英陸軍に提示した試作銃や[13]、1871年から1876年まで製造されたマルティニ・ヘンリー・マークIの一部には引金の作動を制限する構造の安全装置が装備されていたが、部品点数が増える割に衝撃に対する安全性が完全で無かったことから、1876年以降のマルティニ・ヘンリー・マークIIではこの安全装置は廃止された[14]

.402口径のエンフィールド・マルティニ銃ではコッキング・インジゲーターは一旦廃止され、撃針と一体化した発射機構(K)をハーフ・コッキングの位置で停止できる構造の安全装置が追加された。また、補助装備として機関部右側に吊り下げるように取り付ける「クイック・ローダー」が設定された。このクイック・ローダーはバナナ型箱弾倉に類似した構造で、ブリーチブロックに隣接した開口部から実包を1発ずつ引き抜くようにして使用することで、射手の素早い連発操作を補助するものであった[15]。しかし、エンフィールド・マルティニ銃は早々にリー・メトフォードへの移行が決まってしまったことから、既存のマルティニ・ヘンリー銃や、後発の.303口径マルティニ・エンフィールド銃にこれらの改良が反映されることはなかった。

英国の軍用小銃と同様に、マルティニ・ブリーチ・アクションは英国のグリーナー社によって散弾銃に採用された。この単発の「EP」暴動鎮圧用銃(英語版)は、旧英領の植民地では1970年代まで運用された。


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