マルチステーション5550
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開発当初、5550に通信端末機能を付けることは想定されていなかったが、開発中にその重要性が認識されていき、1982年1月に通信端末機能を加えた「1台3役」となることが決定された[3]SNAなどの通信プロトコルを実装するのは容易ではなく、この変更は開発スケジュールに大きな影響を与えた[10]。1982年5月に開催されたビジネスシヨウでは日本IBMはIBM PCを参考出品として展示するに留まり、その年の秋になって独自のパソコンを開発していることがようやく明らかになった[11][12]

5550では用途に応じた数種類のキーボードに共通して、上部に4個単位で幅を空けた12または24個のファンクションキーがある。これは3270/5250専用端末ではファンクションキーが12または24個なためである。これらは文書プログラム使用時には機能の呼び出しに使用でき、1型キーボードには各キーに機能を示す文字も印字されている。一方、IBM PC・PC/XTではファンクションキーは10個となっており、12個が標準になるのはPC/AT後期の101キーボードからである。5550がパソコン・ワープロ・通信端末を統合した企業向けパソコンとして開発されたのに対し、IBM PCは個人が簡単に使える個人向けパソコンとして開発されたという設計思想の違いが表れている[10]
製造委託

5550の本体とディスプレイ、ハードディスクは松下電器産業プリンター沖電気工業、キーボードはアルプス電気が製造を担当した[12][13]

5550は数千台を超える規模の販売が予定されていたが、日本IBMの自社工場にはパソコンを大量生産する環境が整っていなかったため、松下電器産業が製造を受託して日本IBMにOEM供給することになった[14][15]。松下が自社で販売しようという案もあったが日本IBM側がこれを拒否。次に日本IBMと合弁で販売会社を設立しようとしたが、小林大祐(当時、富士通の会長兼パナファコムの社長)が難色を示したため実現しなかった[16][17]。シリーズがPS/55に移行して日本IBM藤沢工場でパソコンの生産が始まった後も、5550系統のモデルは松下が製造を担当した[18]

ただ、1984年に松下通信工業と松下電器産業から互換性はないものの仕様が酷似した特注のビジネスパソコン「JB-5000」やワープロの「パナワード5000」が販売されていた[19]
評価

日本では企業向け多機能複合パソコンとしては既に日本電気がN5200、富士通がFACOM 9450を販売していたが、どちらも需要が伸びず苦しい状況にあった。日本IBMが5550でパソコン市場に参入し、大々的に宣伝したことで多機能パソコンの市場が活性化され、N5200やFACOM 9450はそれまでの倍以上のペースで売り上げた。これらの多機能パソコンは、当時の市販のパソコンが売り切りで保守メンテナンスがないことに不満を持ったユーザーの注目を集めた。

企業への一括導入に対してメーカーやディーラーのサポートが手厚いことも利点に挙げられた。IBM専用端末のリプレースとして約500台の5550を導入することを決めた明治生命保険のシステム担当者は「専用端末並の速さでホストコンピューターと応答できなければ意味が無いし、また多様な通信ソフトがないと困る。これだけの仕事をこなす市販ソフトは現在見当たりませんから。」とコメントした。日本IBMのあるセールスマンは、専用端末の半額で端末機能とパソコン機能を併せ持つ多機能複合パソコンが登場したことに困惑する様子を見せた[20]。IT情報誌『日経コンピュータ』は、FACOM 9450とN5200は独自OSでマルチジョブやファイルの互換性を配慮していて使いやすいだろう、と評価したことに比べ、5550についてはIBM機との接続だけを考えるならその選択が無難とした。日本語ワープロの機能では、5550が入力キーボードへの配慮で他機種より一歩優れているとしたが、ソフトウェア体系とかな漢字変換機能が統一されていないことに不満を挙げた[7]

パソコン市場全体でみた場合、日本IBMは5550で高級志向の企業向けパソコンを発売してから約2年後に個人向けパソコン JX や下位モデルの5540を展開したが、5550発売時点では日本電気のPC-9800シリーズに相当する低価格ビジネスパソコンのラインナップが存在しなかった。5550の発売価格について、あるジャーナリストは後年に次のように振り返っている[21]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}5550は発売価格を見ても、CRTディスプレー、16ビットの漢字プリンター、5.25インチのFDDが2台で、134万円。83年当時発売された国産パソコンに比べると、若干高い程度で、それほど高い価格ではなかったが、決して個人の購買意欲をそそるパソコンではなかった。それに比べ当時のIBM PCはすでに、日本円に換算すると78万円にまで下がっていた。日本でも、その後国内のベストセラーパソコンに成長する日本電気のPC-98シリーズは、100万円を切っていたのを記憶している。

1985年2月に発売された5540については、わずか4ヶ月前に市販パソコンのIBM JXが発売されており、5550の下方展開と思われていたJXとの間に5550と互換性の高い5540が登場したことで、JXのユーザーに混乱をもたらした。日本IBMはパソコンのラインナップを強化したかったと説明した。パソコン雑誌『日経パソコン』は、米IBM本社のIBM PCjrと互換性を持つJXが5540と同じ事業所で同時に開発されていたことを挙げて、JXの発表が5540に先行したのはIBM本社から圧力があったのかと疑問を挙げた。また、IBMの製品は高価という指摘に対して日本IBMの手嶋邦彦(当時、機器事業部企画・管理担当)は、既存モデルとの互換性への配慮や米国IBM本社による厳しい技術審査に苦労して時間を掛けていることを打ち明けた[22]

5550の上位製品にはオフィスコンピュータのシステム/36があり、システム/36の下方展開がなされる代わりに5550の上方展開はしばらくないだろうと予想されていた。しかし、1985年9月に5550の上位製品にあたる5560が発売された。ソフトハウスは既存のソフト製品の動作が高速になることを歓迎した。一方で、下位オフコンのシステム/36 ETは300万円近くし、150万円クラスの5560とは競合していないものの、今後は競合が増すことが予想された[23]

5550はパソコン市場全体ではPC-9800シリーズに大きく差を付けられていったが、企業向けパソコンとしてはメインフレームでシステムを構築する大企業を中心に善戦した。販売数は1983年末では1万台超であったが、1985年には1年間に7万台を販売した[9]。1986年初頭に日経パソコンで行われた調査によれば、企業向けパソコンのシェアで5550 (23.8%) が9450 (16.3%) やN5200 (6.5%) を抜いて首位になった。これはアンケートの回答者に大企業が増えた為だろうと推測された[24]
ラップトップ機と次の開発

1987年に発売されたIBM パーソナルシステム/55 モデル5535は日本IBMが開発した最初のラップトップパソコンであった。

エプソン製のバックライト方式液晶ディスプレイを搭載し、サイズはW310×D350×H100mm、重量は8.1kgであった。日本IBMの堀田一芙(当時、営業推進企画ワークステーション担当)は「そもそも、日本人が楽に持ち運びできる重さは3kg。それが最初から無理ならば、頑丈にして8.1kgにした。」とコメントし、都心の狭いオフィスに適した省スペース・省エネルギーなパソコンであると主張した[25]

液晶ディスプレイの技術的な制約から、ディスプレイの文字モードでの解像度は738×525ドットとなり、16×16ドットフォントでの表示になった。これは既に旧型となっていた5550の16ドットフォント表示と同じアーキテクチャで、PS/55対応ソフトが約1000本だったのに対して5535対応ソフトは約30本と、対応ソフトの少なさが懸念に上がった。IBMのメインフレームと接続するためのオプションカードが用意され、通信端末機能にも力を入れていた[25]

当時、日本で登場し始めた各社のラップトップパソコンは640×400ドットのディスプレイを採用し、738×525ドットを採用した機種は他に例がなかった。この仕様は競合他社を上回っていたが、そのことが原価に大きく影響した。エプソンで独自解像度の液晶パネルを開発するにあたって、そこで使われていたものと全く別工程の技術や開発ツールが必要になった。また、画面解像度の変更はソフトウェアの移植を難しくさせ、対応ソフトがなかなか揃わなかった。日本IBMと年間数億円の取引があった顧客が5535よりも東芝のJ-3100シリーズを選んだ、という営業担当からの情報に、開発陣は焦りを感じ始めた。開発陣は5535-Mの開発を終えると同時に、640×480ドットの薄型ディスプレイとDOS/Vを搭載した普及型VGAパソコン『PS/55 note』の構想を固めていった[26]
脚注^ a b 日本アイ・ビー・エム「高性能、多機能の超小型システムを発表 ―日本アイ・ビー・エム―」『情報科学』第19巻、情報科学研究所、1983年、101-105頁、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 03683354。


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