マルタ
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歴史詳細は「マルタの歴史」を参照

新石器時代から人間が生活していたといわれ、巨石文明および平行に穿たれた2本の溝の遺跡が島内各所に残る。前者はジュガンティーヤ、スコルバ、タルシーン、ハジャイーム、(イ)ムナイドラの各神殿を含む。後者は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、この溝には水路説と神殿などに石を運ぶために出来た(あるいは造られた)レール説があるが、鉄道のポイントのように分岐点が所々存在する。

紀元前1000年ごろ、現在のレバノン一帯が起源とされるフェニキア人が渡ってきて支配者となる。

紀元前400年ごろに、カルタゴの支配下に入り、その後紀元前218年ローマに攻略される。そのころから既に地中海貿易で繁栄していた。マルタ包囲戦 (1565年)変遷 聖ヨハネ騎士団 1566?1798

フランス占領下のマルタ(英語版) 1798?1800
マルタ保護国(英語版) 1800?1813
マルタ直轄植民地 1813?1964
マルタ国 1964?1974
マルタ共和国 1974?現在

紀元60年ごろ[1]使徒パウロがローマで皇帝の裁判を受けるために護送される途中で嵐に遭い、船が難破して打ち上げられた[2]。なお、マルタ島の北部にパウロと兵士や船員たちが打ち上げられたと言われる「聖パウロ湾」(Saint Paul's Bay)と呼ばれる場所がある。

870年アラブ人の侵攻を受け、1127年ノルマン人が占拠するまでイスラム帝国の支配下に置かれた。その後、1479年スペインの支配下に置かれ、1530年には、1522年ロドス島を追われた聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領となった。1565年にマルタ騎士団はオスマン帝国からの攻撃を受けるが(マルタ包囲戦)、およそ4か月で撃退に成功した。現在の首都バレッタは、この時のマルタ騎士団の団長ジャン・ド・ヴァレットの名前にちなんでいる。

1795年エジプト遠征途上のナポレオン・ボナパルトによって占領された(フランスのマルタ占領)が、まもなくイギリスが支配したため、フランス軍はエジプトに孤立した。マルタ占領で地中海進出を果たしたイギリスに対し、通商権を侵害されたとしたデンマークスウェーデンと、そもそもイギリスの地中海進出に難色を示したロシアはプロイセンと結び、1800年に第二次武装中立同盟を結成する。

イギリスは、1801年にデンマークの首都コペンハーゲンを攻撃して(コペンハーゲンの海戦, 4月2日)武装中立同盟を解体させる。ナポレオン戦争の終了後、ウィーン会議でイギリスのマルタ領有が確定する。

地中海を経由してインドに至るルート上に位置するマルタは、イギリスの重要拠点となっていく。第一次世界大戦第二次世界大戦では、マルタ沖では海戦が度々勃発した。特に第二次世界大戦中にはエジプトへの連合国側の輸送路の途上にあり、またイギリス海軍の拠点として、イタリアと北アフリカとを結ぶ枢軸国側の輸送路を脅かす存在となった。このため、マルタ島は激しい空襲に晒されたが(第二次マルタ包囲戦)、ついに陥落することはなく、連合国軍のシチリアやイタリア本土への上陸作戦の拠点となった。詳細は「地中海の戦い (第二次世界大戦)」を参照

戦時下の国民の努力と忍耐を讃え、イギリス国王ジョージ6世は「マルタの国と国民全て」を対象にジョージ十字勲章を授与された。勲章は現在の国旗のデザインとしてあしらわれている。

戦後、反英抵抗運動、独立闘争では後に第3代大統領となるアガサ・バーバラらが活躍した。1964年9月21日、英連邦王国自治領マルタ国(State of Malta / Stat ta' Malta)としてイギリスから独立、エリザベス2世を女王とする人的同君連合となった。さらに1974年12月13日には君主制から共和制に移行し、イギリス連邦加盟のマルタ共和国となった。2004年5月1日に欧州連合(EU) に加盟した。
政治詳細は「マルタの政治(英語版)」を参照首都バレッタの裁判所。

国家元首たる 大統領は任期5年で、立法府である代議院によって選出される(複選制)。全ての執行権は大統領によって直接的または間接的に行使されるが、基本的には儀礼的・形式的地位である。詳細は「マルタ総督」および「マルタの大統領」を参照

行政府の長である首相は、代議院選挙後に第1党の党首が大統領により指名され就任する。代議院の信任を失った場合は辞職する(議院内閣制)。詳細は「マルタの首相」を参照

代議院は任期5年の一院制で、原則として定数は65議席となっている。比例代表制選挙により選出されるが、選挙の結果、いずれの党も単独過半数の議席を得ることができなかった場合は、もっとも得票率が高かった党に対してさらに最大4議席を追加配分し、単独過半数を確保させる。これは二大政党制が確立しているマルタにおいて、例えば第1党が32議席、第2党が30議席、第3党が3議席という結果になった場合、国民全体の中で少数の支持しか得ていない第3党が連立政権の発足および維持において過剰な影響力を行使しうる事態に陥るのを回避することにより、民意の国政への正確な反映よりも、政局の安定を重視した制度である。詳細は「マルタの政党(英語版)」を参照

2017年、パナマ文書を元にマルタ政府要人の租税回避の関係を追及していた記者ダフネ・カルーアナ・ガリジアが爆殺される事件が発生した[3][4]。マルタはイタリアのマフィアのオンライン賭博の温床になっているという指摘もあり[3]、反マフィア団体はマフィア排除の必要性を求めている[5][6]
国際関係詳細は「マルタの国際関係(英語版)」を参照マルタ外務省で開催された東北地方太平洋沖地震の被災者を支援するコンサート
冷戦終結の舞台

マルタは、東西冷戦の終結を告げる歴史的なマルタ会談の舞台としても知られる。

1989年12月3日、当時のミハイル・ゴルバチョフソビエト連邦最高会議議長ソ連共産党書記長)とジョージ・H・W・ブッシュアメリカ大統領)のふたりが、マルタで米ソ首脳会談を開催して戦後44年間続いた冷戦の幕引きを世界にアピールし、欧州新秩序づくりへ向けての一致協力をうたった。

東西冷戦が1945年ヤルタ会談から事実上始まり、マルタ会談で終結したことから、マルタ会談については「ヤルタからマルタへ」というキャッチフレーズで語られることも多い。
日本との関係詳細は「日本とマルタの関係」を参照


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