マルタ騎士団
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総計(2013年13500[1]人(N/A位[注記 2][2]
人口密度N/A人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年)xxx,xxxマルタ・スクード

GDP(MER
合計(xxxx年)xxx,xxxドル(???位
1人あたりxxxドル

GDP(PPP
合計(xxxx年)xxx,xxxドル(???位
1人あたりxxxドル

主権実体[2]
エルサレムに設立1050年頃
ローマ教皇による承認1113年2月15日
領土を失う1798年6月12日
主権の承認(英語版)1822年12月14日
ローマに本部を移転1834年

通貨マルタ・スクード(???
時間帯UTC+1 (DST:不明)
ISO 3166-1不明
ccTLDなし
国際電話番号なし
領土を持たない「主権実体」
^ マルタ宮殿のみの面積。マルタ騎士団は他に騎士団総長公邸や聖アンジェロ砦など世界各国に治外法権を有する。
^ 騎士団員の総数。このうち騎士団の発行したパスポートを保有する人数は約500名。

エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会[1](エルサレム、ロードスおよびマルタにおけるせいヨハネしゅけんぐんじびょういんきししゅうどうかい、: Sovrano Militare Ordine Ospedaliero di San Giovanni di Gerusalemme di Rhodi e di Malta)、通称マルタ騎士団[1](マルタきしだん)は、キリスト教カトリック教会騎士修道会である。

現在は領土を有さない[1]が、かつて領土を有していた経緯から今日でも国際法上の「主権実体(: sovereign entity)」として認められ[3]、中央政府を置くイタリアローママルタ宮殿には治外法権が与えられ112の国家と国交を結んでいる(2022年時点)[1]。そのため「領土なき独立国」とも呼ばれる[4]
概説

11世紀十字軍時代のエルサレムに発祥した聖ヨハネ騎士団が現在まで存続したものであり、ロドス島及びマルタ島における旧来の領土を喪失しているため国土を有さないが、主権実体として承認して外交関係を有する国が112カ国ある[1][5]国際連合ならびに欧州連合(EU)にオブザーバーとしても参加している[6]

現在世界120カ国で医療などの慈善活動を実施し、世界中に12の管区、48の国家支部、133の外交団、33のボランティア隊を展開する[7]。また全世界に1万3,500名の騎士、9万5,000名のボランティア、5万2,000名の有給職員を擁している[1]が、実際にマルタ諸島に住んでいるのは100人ほどである[8]ロレート巡礼を行うマルタ騎士団員

マルタ騎士団は国際法上認められた主権実体として、EUに正式に認められたパスポート[9]、独自の通貨切手を発行している。パスポートの表紙は赤色で、騎士団の外交活動に携わる約500名の騎士が所持しており、騎士団幹部11人がマルタ騎士団の「国籍」を有している[1]

2022年6月、日本国籍で約90年ぶりの騎士として武田秀太郎が叙任されたことが発表された[10]

紋章

団章

マルタ騎士団外交パスポート

歴史詳細は「聖ヨハネ騎士団」を参照

マルタ騎士団は、1048年頃にアマルフィ商人により巡礼保護を目的としてエルサレムに設立された聖ヨハネ病院にその起源を持つとされる。第1回十字軍において聖ヨハネ病院は、福者ジェラールの下、多くの騎士により信仰や人種を問わず治療を行った。彼らは病院騎士(ナイト・ホスピタラー)と呼ばれた。

1113年教皇パスカリス2世教皇勅書により聖ヨハネ病院は正式に騎士修道会聖ヨハネ騎士団)として認可された。十字軍勢力がパレスチナから追われた後はまずキプロス島、次いでロドス島を本拠とし、イスラム教徒に対する聖戦の実行者として1365年アレキサンドリア十字軍1396年ニコポリス十字軍1480年の第一次ロドス包囲戦(英語版)勝利などに貢献した。

1522年オスマン帝国との第二次ロドス島包囲戦に敗れると、騎士団は拠点をマルタ島に移し、マルタ騎士団と呼ばれるようになった。騎士団は宮殿や教会、新しい防衛砦や庭園を建設するとともに、当時の西洋世界で最大規模であった大病院と、解剖学外科学の学院を設立、マルタ島を大きく変貌させた。

1565年のオスマン帝国とのマルタ包囲戦において、総長ジャン・ド・ヴァレットに率いられた騎士団は島を守り抜いた。この戦いで騎士団員の8割が死傷したが、オスマン帝国に16世紀最初の敗北を与えた。その後も騎士団は軍事集団として、レパントの海戦などの異教徒との戦いにおいて歴史的に重要な役割を果たした。

1798年ナポレオン・ボナパルト侵攻されたマルタ騎士団は、キリスト教徒に対し武器を取ることを禁じる掟によりマルタ島を離れることを余儀なくされた。領土を失ったマルタ騎士団はその後もマルタ島への復帰を国際社会に働きかけたものの、遂にその悲願が叶うことはなかった[11]1822年、ヴェローナ会議(英語版)において領土喪失後もマルタ騎士団が国家主権を維持していることが承認され、国際法上の「主権実体」としての地位を確立した。

1834年、マルタ騎士団はその本拠地をローマへと移すことを決定する。以降、マルタ騎士団は軍事的任務から離れ[12]、国際慈善活動に注力するようになる。

1994年、国際連合総会オブザーバーの地位の付与が決定された[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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