マルタ包囲戦_(1565年)
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トリポリから海賊らを追い立てるためフェリペ2世は過去50年間で最大級の遠征を決意した。当然マルタ騎士団は54隻のガレー船と14,000人の兵員を編成して遠征に参加した。だが遠征軍は1560年5月にピヤーレ・パシャ提督率いるオスマン艦隊とチュニジア沖のジェルバ島で交戦、戦力の半分が沈没または拿捕されるという壊滅的な敗北を被った(ジェルバ島の戦い)。
戦闘準備

ジェルバでの大敗ののち、オスマン軍のマルタ再侵攻の恐れは更に高まった。1560年8月にジャン・ド・ヴァレットは騎士団員へチタジオーネ(招集)を掛け、全てにおいて騎士団が優先されるとしてマルタへの帰還と戦闘準備を命じた[7]。騎士団にとって幸いなことに、この時は後継者問題で揺れるオスマン側は何も行動を起こそうとせず、騎士団とスペインが軍を再建する時間を与えた[8]

戦力を充実させつつ、騎士団は異教徒と見られる船を襲い略奪し続けた。1564年半ば、騎士団で最も悪名高い船乗りマトゥリン・ロメガスがいくつかの大型商船を捕らえた。その中には後宮宦官長所有の船が含まれており、カイロ総督、アレクサンドリア総督、スレイマン1世の娘の乳母だった者といった多数の位の高い人々を連行した。

1565年初頭、イスタンブールに潜入していたド・ヴァレットのスパイが、侵攻が差し迫っていることを知らせた。ド・ヴァレットはイタリアで募兵を開始、物資の貯蔵を進め、聖アンジェロ砦、聖ミケーレ砦、聖エルモ砦の整備を完了させた。
両軍の陣容

1565年3月下旬、オスマン帝国の艦隊がイスタンブールを出撃した。包囲戦で最も早く戦記を残した騎士ジャコモ・ボジオは、オスマン艦隊がガレー131隻、小型ガレー7隻、大型ガレー4隻、その他輸送船舶も含めて計193隻から構成されていたと記録している[9]

騎士団がフェリペ二世へ送った報告ではガレー130隻、小型ガレオン船30隻、大型帆船10隻、その他凡そ200隻前後のカラムサル船(武装商船、私掠船)からなり、2ヶ月後にガレー船41隻とフスタ船3隻が増援したと記している。

同時期にシチリア副王、ビリャフランカ・デル・ビエルソ侯ガルシア・アルバレス・デ・トレド・イ・オソリオ(トスカーナ大公エレオノーラの実兄)の書簡も上記と似かよった船舶数を記していた[10]。なお、騎士団のガレーの漕ぎ手にムスリム奴隷が使われているのは重労働のためであり、同じくオスマン側のガレーではキリスト教徒の奴隷が漕ぎ手に使われていた。

イタリア系スペイン人傭兵フランシスコ・バルビ・ディ・コルレッジョの有名な包囲戦日記から、双方の軍構成が伝えられている。

マルタ騎士団オスマン帝国軍
マルタ騎士団500人騎兵隊(スィパーヒー)8,000人
スペイン兵400人イェニチェリ6,000人
イタリア兵800人バルカンアフリカアナトリア兵20,000人
ガレー船乗組の水兵500人シリアイラク兵4,000人
ギリシャおよびシチリア兵200人領主義勇兵3,000人
聖エルモ砦守備隊100人農兵5,000人
騎士たちの従僕100人ルーマニア近衛兵1,200人
ガレー船の漕手としてムスリム奴隷500人トリポリ、アルジェよりの増援部隊
マルタ島住民の中から動員された義勇兵3,000人カラマニア騎士団 ミュティレネ兵 ネグロポンテ騎士団等
合計: 6,100人、実際は首都だけで10,000人強が篭城合計: 合計は48,000人、うち約半分がアジア出身者

また根拠が曖昧であるが、騎士イポリト・サンスも、オスマン軍の数についておよそ48,000人という数字を載せている[11]。同時代の作家らはもっと少ない。包囲戦が始まった4日後にフェリペ2世が書いた手紙には、「上陸した兵士の数は、15,000人から16,000人の間、それには700人かそれ以上の火縄銃の射手、400人のイェニチェリ、300人のスィパーヒーが含まれている」との報告を受けたとある[12]。一方で、包囲戦の一ヶ月後にドイツの修道院長へ宛てて書いた手紙には、篭城する都市から「このオスマン艦隊は250隻の船、三段櫂ガレー、二段櫂ガレー、その他船舶から構成されている。最も近い概算では、敵軍の戦闘員は40,000人と計算することができる」と書いていた [13]

包囲戦の間でもシチリアとの連絡は保たれ、書簡のやり取りは絶えずあったが、騎士団の私掠船長ヴィンチェンツォ・アナスタージは敵軍はたった22,000人だと申し立てている。当時のその他のいくつかの手紙では同じような数が挙げられていた[14][15]。しかし、ボジオが合計でおよそ30,000人という数字を推測したことは、コルレッジョの記録にある名前が付けられた軍隊の人数と矛盾しないと思われる[16]。その他の初期の記録は、ボジオ、コルレッジョの概算と似た数字を残している [17]

16世紀のガレーの容量を考えると、通常は兵士の乗り込みは70人から150人の間とされた。アナスタージはシチリア福王に宛てた書簡で、少ない人数であってもできるだけ早く救援を送るよう説いていた。オスマン軍の兵力についてはオスマン側に記録がなく、キリスト教側の資料も数字が分かれ、真実の数字を知ることはもはやできないだろうが、約30,000人程度というところで歴史家の意見は一致している(この他に約6,000人の海賊が加わっていたと推測されている)。

防衛側の人数においては、コルレッジョの出した数は明らかに少ない。島には、騎士・兵士3000人、民兵10,000人、奴隷500人が居たが、民兵の多くは武器の扱い方に慣れない人々であった。
オスマン軍の上陸トプカプ宮殿そばにあるトゥルグト・レイス像

5月18日の夜明け頃、ついにマルタ近海にオスマン艦隊が姿を現した。彼らは島の南岸へ向かいマルサシュロック港で停泊した。グランド・ハーバーとして知られている大港から南東へわずか10キロの地点である。


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