プルーストは、非常に繊細で過敏な神経の持ち主であった[31][37]。オスマン通り102番地のアパルトマンの部屋では、喘息に障ることを恐れたこともあって、常に窓を閉ざし、厚いカーテンを閉めたままにして外気も光も遮断し、また部屋の壁をコルク張りにして音も入らないようにした上で、昼夜逆転した生活を送りながら、執筆を進めていた[31][38]。
医者嫌いでもあったプルーストは、医師の処方には見向きもせず、自室でルグラ粉末に火をつけて燻蒸を行なうことでその治療とし、またヴェロナールとカフェインの錠剤を常用していた[39]。死の原因も喘息の大きな発作のあと、風邪を引いたことによって併発した肺炎であり、最後まで入院を拒んで自宅で死ぬことを選んでいる[36]。
また、彼は、大変な美食家であったが、食事の量は非常に少なく、1日に1食しか食べなかった。特に好んで食べたのは舌平目のフライで、その他にロシア風サラダや油をよく切ったフライドポテト等を好み、またカフェオレと一緒にクロワッサンを食べる事も多かった[35]。ワインや強い酒は決して飲まなかったが、冷えたビールは別で、また時々フライドポテトをつまみにリンゴ酒を飲む事もあった。晩餐に知人を呼ぶ事もあったが、その時はベッドの脇に小さなテーブルを用意して知人に食事を勧め、自分の方は決して手をつけなかった[40]。
プルーストは、流行に関心を持ってはいたものの、それは作品に役立てるためであり、自身は物持ちのよかったこともあって、使い古した服を好んで着続けていた。また、病的な寒がりであった彼は、夏にも常に厚着をしていて、あるときは海に行くためと称してコートを2着作らせたこともある。第一次世界大戦後にホテル・リッツで晩餐会をともにしたイギリス大使のダービー卿は、プルーストが夕食中も毛皮のコートを脱がないままだったことに驚いたと記している[41]。
家が裕福であったプルーストは、幼い頃から大変な浪費家であり、時にその出費は月に何百フランにも達することがあった。友人にはしばしば豪勢な贈り物をし、使用人にも多額のチップを与えた。両親が健在だったときには小遣いの管理をされていたが、父親はプルーストのところに来た請求書の支払いを拒んだことは決してなかった。1919年にゴンクール賞を受賞したときには、賞金5000フランを「謝恩晩餐会」のために一瞬で使いきってしまった[42]。 プルーストは、芸術の信奉者であり、その著作には多数の芸術家、文学者の名が言及されている。彼の美学に影響を与えているのは、イギリスの思想家ジョン・ラスキンであり[28]、より後にはウォルター・ペイターであった[43]。 美術館にもよく通って初期ルネサンスからピカソまであらゆる絵画を知っており、レンブラント、モネ、ヴァトー、シャルダンなどに関する覚書は死後『新雑録』中の「画家の肖像」の題で刊行されている。彼が特に高く評価した画家はフェルメール、ルノアール、モローなどで、特に1902年と死の前年の1921年に2度鑑賞したフェルメールの『デルフトの眺望』はプルーストに重要なインスピレーションを与えており、『失われた時を求めて』での作家ベルゴットの死のシーンにそのときの体験が使われている[36][44]。 音楽については、ベートーヴェン、シューマンを高く評価する一方で、フォーレ(彼と文通していた)、ドビュッシー、ワーグナーにも賛辞を惜しまなかった。特にワーグナーは『失われた時を求めて』で最も頻繁にその名が引用されている作曲家であり、とりわけ『トリスタンとイゾルデ』『ローエングリン』『パルジファル』を好んだ。また、ベートーヴェンについては、後期のソナタや弦楽四重奏曲第15番の最終楽章を好み、真夜中に自室に楽団を呼んで演奏させたこともある[45]。 文学に関しては、後述のロベール・ド・モンテスキューや、ポール・ブールジェ、レミ・ド・グールモンなどと親交のあった作家が19世紀末にプルーストに影響を与えている。プルーストが高く評価していた作家は、ダヌンツィオ、ボードレール、ヴェルレーヌ、ノアイユ伯爵夫人、ステファヌ・マラルメなどである。また、ある文章では、ドイツ、イタリア、フランスの文学よりも英米文学が自分に大きな影響を与えていると述べている[46]。
芸術
社交ゲルマント公爵夫人の才気な性格のモデルとなったストロース夫人
プルーストは、学生時代からサロンに出入りし、ブルジョア夫人、公爵や公爵夫人、当時の流行画家や作家、俳優など様々な著名人と知り合っていた[21][49]。社交界は『失われた時を求めて』の主要な舞台背景の1つであり、プルーストがこれらの場で得た見聞は、同作品に大いに生かされることになった。