『失われた時を求めて』は、1912年に第1篇『スワン家のほうへ』の原稿がようやく出来上がり、いくつかの出版社(ファスケル社、オランドルフ社、『新フランス評論』(NRF)のガリマール社)に断られた後、グラッセ社から1913年11月に刊行されて各紙で好評となった[31][35]。特にジッドやシュランベルジェ(フランス語版)ら新進作家を擁していた『新フランス評論』(NRF)では、先の出版拒否に対する強い反省が内部で起こり、1914年にはジッドからプルースト宛てに謝罪の手紙が送られている[35]。
NRFはプルーストに打診して『失われた時を求めて』の第2巻以降を自社ガリマール社で出版することに決め、第1巻の出版権もグラッセ社から買取ることにした[35]。1919年6月に刊行された第2巻目の『花咲く乙女たちのかげに』は、新進作家ロラン・ドルジュレス(フランス語版)の『木の十字架』を押さえてその年のゴンクール賞に輝いた[36]。晩年はジャン・コクトー、ポール・モーラン、ヴァルター・ベリー、フランソワ・モーリヤックなどの若手作家などとも親交を持った[36]。
病弱であったプルーストは日々健康を悪化させていき、全篇の清書を仕上げていた1918年頃から発話障害と一時的な顔面麻痺が時おり起こるようになった[36]。そして1922年11月18日、『失われた時を求めて』第5巻以降の改稿作業の半ばに、喘息の発作と風邪による肺炎併発のため51歳で息を引き取った[5][33][36]。遺体は、両親と同じくパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された[36]。 プルーストは、非常に繊細で過敏な神経の持ち主であった[31][37]。オスマン通り102番地のアパルトマンの部屋では、喘息に障ることを恐れたこともあって、常に窓を閉ざし、厚いカーテンを閉めたままにして外気も光も遮断し、また部屋の壁をコルク張りにして音も入らないようにした上で、昼夜逆転した生活を送りながら、執筆を進めていた[31][38]。 医者嫌いでもあったプルーストは、医師の処方には見向きもせず、自室でルグラ粉末に火をつけて燻蒸を行なうことでその治療とし、またヴェロナールとカフェインの錠剤を常用していた[39]。死の原因も喘息の大きな発作のあと、風邪を引いたことによって併発した肺炎であり、最後まで入院を拒んで自宅で死ぬことを選んでいる[36]。 また、彼は、大変な美食家であったが、食事の量は非常に少なく、1日に1食しか食べなかった。特に好んで食べたのは舌平目のフライで、その他にロシア風サラダや油をよく切ったフライドポテト等を好み、またカフェオレと一緒にクロワッサンを食べる事も多かった[35]。ワインや強い酒は決して飲まなかったが、冷えたビールは別で、また時々フライドポテトをつまみにリンゴ酒を飲む事もあった。晩餐に知人を呼ぶ事もあったが、その時はベッドの脇に小さなテーブルを用意して知人に食事を勧め、自分の方は決して手をつけなかった[40]。 プルーストは、流行に関心を持ってはいたものの、それは作品に役立てるためであり、自身は物持ちのよかったこともあって、使い古した服を好んで着続けていた。また、病的な寒がりであった彼は、夏にも常に厚着をしていて、あるときは海に行くためと称してコートを2着作らせたこともある。第一次世界大戦後にホテル・リッツで晩餐会をともにしたイギリス大使のダービー卿は、プルーストが夕食中も毛皮のコートを脱がないままだったことに驚いたと記している[41]。 家が裕福であったプルーストは、幼い頃から大変な浪費家であり、時にその出費は月に何百フランにも達することがあった。友人にはしばしば豪勢な贈り物をし、使用人にも多額のチップを与えた。両親が健在だったときには小遣いの管理をされていたが、父親はプルーストのところに来た請求書の支払いを拒んだことは決してなかった。1919年にゴンクール賞を受賞したときには、賞金5000フランを「謝恩晩餐会」のために一瞬で使いきってしまった[42]。 プルーストは、芸術の信奉者であり、その著作には多数の芸術家、文学者の名が言及されている。彼の美学に影響を与えているのは、イギリスの思想家ジョン・ラスキンであり[28]、より後にはウォルター・ペイターであった[43]。 美術館にもよく通って初期ルネサンスからピカソまであらゆる絵画を知っており、レンブラント、モネ、ヴァトー、シャルダンなどに関する覚書は死後『新雑録』中の「画家の肖像」の題で刊行されている。彼が特に高く評価した画家はフェルメール、ルノアール、モローなどで、特に1902年と死の前年の1921年に2度鑑賞したフェルメールの『デルフトの眺望』はプルーストに重要なインスピレーションを与えており、『失われた時を求めて』での作家ベルゴットの死のシーンにそのときの体験が使われている[36][44]。
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