しかしその生活はおよそ大学生らしいものではなく、プルーストは社交界に熱心に出入りしてその名を馳せ(自由政治学院は社交界への足がかりとするのに都合が良かった)、貴族社会や芸術界の著名人と知り合い自宅の夕食に招くようになっていた[21][24]。 プルーストの家には十分な資産があったが、当時のブルジョワ階級の常で両親はプルーストに職を持つことを望んでいた。そのため、プルーストは、1893年に公証人の研修を受けるなどしているが早々に放棄し、またパリを離れたくなかったことから、外務省に入れることを考えていた父の意向も敬遠している。1895年には父の伝手をたどりマザリーヌ図書館で無給司書助手となったが、休暇届けを濫発して結局ほとんど勤めに出ないまま1899年に退職し、以後は一切職に就かず文学に専心することになった[22][25]。 1896年6月には初の著作集『楽しみと日々』を出版し(ディレッタントの作品と見なされまったく売れなかった)[5][26]、また1895年からは『失われた時を求めて』の前身とも言える自伝小説『ジャン・サントゥイユ』の執筆を始めていたが1899年頃に中断した[22][27]。1900年からはイギリスの思想家ジョン・ラスキンの研究の発表も始めている[28][29]。1906年12月から1919年4月まで住んでいたオスマン通り102番地の建物 20世紀に入ると、プルーストの生活に大きな変化が起こった。まず1903年2月に弟ロベールが結婚して独立後、同年11月3日に父が勤務先で倒れそのまま26日に死去[30]。そして1905年9月26日には、夫の死の衝撃から癒えぬまま癌を再発した母ジャンヌが死去した[30]。特に母親から愛情を受けて育ったプルーストは彼女の死に大きな精神的打撃を受け、しばらくの期間を無為と療養の日々を過ごした[30]。 その後1906年12月に、プルーストは1人で住むには広すぎるそれまでの家から、オスマン通り102番地にあるアパルトマンの2階に転居する[31]。19世紀の大作家の文体模写(パスティッシュ)などを発表後、批評家サント・ブーヴに反論する意図から執筆していた物語式の評論が原型となり1908年から書き始められた『失われた時を求めて』は、その大部分がこの住居で書かれることになった[31]。このアパルトマンは大伯父ジョルジュ・ヴェイユが以前に所有していたもので、母の残り香のような思い出が残っていたからであった[31]。 また、健康状態が回復したことで、1907年から毎年ノルマンディーの避暑地カブールに出かけるようになり(1914年まで毎夏)、教会建築を廻るため雇った自動車の交代運転手の中に青年アルフレッド・アゴスチネリ
創作活動
『失われた時を求めて』は、1912年に第1篇『スワン家のほうへ』の原稿がようやく出来上がり、いくつかの出版社(ファスケル社、オランドルフ社、『新フランス評論』(NRF)のガリマール社)に断られた後、グラッセ社から1913年11月に刊行されて各紙で好評となった[31][35]。特にジッドやシュランベルジェ(フランス語版)ら新進作家を擁していた『新フランス評論』(NRF)では、先の出版拒否に対する強い反省が内部で起こり、1914年にはジッドからプルースト宛てに謝罪の手紙が送られている[35]。
NRFはプルーストに打診して『失われた時を求めて』の第2巻以降を自社ガリマール社で出版することに決め、第1巻の出版権もグラッセ社から買取ることにした[35]。1919年6月に刊行された第2巻目の『花咲く乙女たちのかげに』は、新進作家ロラン・ドルジュレス(フランス語版)の『木の十字架』を押さえてその年のゴンクール賞に輝いた[36]。晩年はジャン・コクトー、ポール・モーラン、ヴァルター・ベリー、フランソワ・モーリヤックなどの若手作家などとも親交を持った[36]。
病弱であったプルーストは日々健康を悪化させていき、全篇の清書を仕上げていた1918年頃から発話障害と一時的な顔面麻痺が時おり起こるようになった[36]。そして1922年11月18日、『失われた時を求めて』第5巻以降の改稿作業の半ばに、喘息の発作と風邪による肺炎併発のため51歳で息を引き取った[5][33][36]。