マルセル・プルースト
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このうちの1人ジョルジュ・プーレは、作家の創造的な自己に同一化しようとする自身の批評方法「一体化の批評」の源にプルーストがあると明言している[7][67]

プルーストは、文学研究家クルティウスなどから「フローラ系の作家」と評され、その作品中で描かれる人物に関するものが植物に喩えられていることが多く、その意味でプルーストの描く男女は生殖器を羞恥心なく晒している花や植物のように、ある意味で同性愛を真には悪徳とは見ていないことが看取されると、サミュエル・ベケットは論じている[32]
略年譜

1871年
00000000000000007月10日、パリ16区オートゥイユのラフォンテーヌ街96番地(母方の叔父の別荘)にて、フランス人医師の父・アドリヤン(フランス語版)(37歳)と、ユダヤ人の母・ジャンヌ(フランス語版)(22歳)の長男として誕生。一家は新興住宅街のパリ8区のロワ街8番地のアパルトマンに居住。マルセルは病弱で成長も危ぶまれるほどであった。
1873年1 - 2歳。5月24日、弟ロベール(フランス語版)が誕生。一家はロワ街8番地からマルゼルブ通り9番地に転居。弟はマルセルとは対照的に健康に育つ。マルセルの幼少期、一家は復活祭の時期にしばしばイリエ(父の出身地)やオートゥイユを訪れる。
1878年6- 7歳。イリエでバカンスを過ごす。
1881年9 - 10歳。4月か5月頃、ブローニュの森を散策後に突然喘息の発作を起こす。これが生涯の持病となる。パープ・カルパンチエ初等学校に級友のジャック・ビゼー劇作家ジョルジュ・ビゼーの息子)らと共に通う。
1882年10 - 11歳。フォンターヌ高等中学校(のちのコンドルセ高等中学校)に入学。親しい学友らにはユダヤ人あるいはユダヤ人ハーフが多くいた。マルセルは病気がちで欠席が多かった。
1886年14 - 15歳。6月、両親とイリエに滞在。オーギュスタン・ティエリの著書を没頭して読む。伯母エリザベートが死去。
1887年15 - 16歳。コンドルセ高等中学校の修辞学級に進級。しばしば放課後、学友たちとシャンゼリゼ公園で遊び、少女たちと知り合う。その中のポーランド貴族の娘マリー・ド・ベナルダキ(フランス語版)に強い愛情を抱く。
1888年16 - 17歳。哲学級に入り、アルフォンス・ダルリュ教授に影響を受ける。友人らと同人誌『緑色評論』『リラ評論』『月曜評論』『第二学年評論』を創刊。級友のジャック・ビゼー、ダニエル・アレヴィ劇作家リュドヴィク・アレヴィの息子)に同性愛的思慕を抱く。社交界にも関心を寄せ、ジャック・ビゼーの母親ストロース夫人(フランス語版)(ビゼーの死後に銀行家ストロースと再婚)のサロンに出入り始める。ドゥミ・モンド(半社交界)と称される高級娼婦ロール・エーマン(大伯父ジョルジュ・ヴェイユの囲い者)と交友するようになる。のちにストロース夫人のサロンでシャルル・アース(フランス語版)を知る。
1889年17 - 18歳。哲学級を修了し、大学入学資格(バカロレア)を取得。11月、1年兵役の恩典を受けるため志願兵としてオルレアンの軍隊に入隊。毎日曜日には、アルマン・カイヤヴェ夫人(フランス語版)(作家アナトール・フランスの愛人)のサロンに通い、アナトール・フランスと知り合う。
1890年18 - 19歳。祖母アデル・ヴェーユが死去。11月に兵役を終え、パリ大学法学部と自由政治学院に入学。この頃から翌年まで雑誌『マルシュエル』に寄稿。
1891年19 - 20歳。マチルド皇妃ナポレオンの姪)と知り合いサロンに出入りする。カブールトルヴィルに滞在。この年にオスカー・ワイルドと会った可能性もある。
1892年20 - 21歳。春頃、シュヴィニェ伯爵夫人にプラトニックな愛情を寄せる。元学友たちと雑誌『饗宴(フランス語版)』を創刊し、書評や習作、短篇小説などを発表。9月、熱愛した美貌の青年エドガール・オーベール(スイス人新教徒)が急死。
1893年21 - 22歳。女流画家 マドレーヌ・ルメール夫人のサロンで、春頃にロベール・ド・モンテスキューと知り合う。雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』に度々寄稿。その1篇「夕暮れのひととき」でレズビアンを描く。10月、ウィリー・ヒースがチフスで急逝。法学士号試験に合格。
1894年22 - 23歳。マドレーヌ・ルメール夫人のサロンで、レイナルド・アーンと知り合い親交を結ぶ。8月、ルメール夫人の招きで、アーンと共にレヴェイヨンの城に滞在。アルフォンス・ドーデとも出会い、その次男リュシアン・ドーデ(フランス語版)と知り合う。
1895年23 - 24歳。3月、文学士号試験に合格。6月、マザリーヌ図書館で無給司書となるが、直ぐに休暇を取る(その後も毎年休暇を更新し一度も仕事をせず)。8-9月、アーンと共に、ディエップのルメール夫人宅に滞在後、ブルターニュ旅行しベグメーユに滞在。そこで自伝小説『ジャン・サントゥイユ』の執筆を始める(1900年頃に断念)。
1896年24 - 25歳。中篇小説「つれない男」(1893年執筆)を発表。6月、最初の著書『楽しみと日々』を刊行。リュシアン・ドーデとの親交を深める。マリー・ノードリンガー(レイナルド・アーンの従妹)と知り合う。7月、雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』に「晦渋性を駁す」を発表。
1897年25 - 26歳。2月、『楽しみと日々』をめぐってプルーストとリュシアン・ドーデの同性愛的関係を当て擦ったポール・デュヴァル(ジャン・ロラン(フランス語版))とムードンの森で決闘。ピストルの弾丸が逸れたため両人とも無事に済んだ。
1898年26 - 27歳。「ドレフュス事件」の進展により、ユダヤ人大尉アルフレド・ドレフュス支持派として友人らと共に活動。ドレフュスとジョルジュ・ピカール大佐(フランス語版)の擁護署名をアナトール・フランスから貰う。ドレフュス擁護の『私は弾劾する』を発表して提訴されたエミール・ゾラの裁判を傍聴。6-9月、母ジャンヌの手術で心労。退院した母とトルヴィルに行く。10月、最初のオランダ旅行をし、アムステルダムレンブラント展を観る。
1899年27 - 28歳。ロベール・ド・ビイからエミール・マールの『フランス十三世紀の宗教芸術』を借りて読む。8-9月、両親と共にエヴィアンに滞在し、コンスタンタン・ド・ブランコヴァン(ルーマニアの大公の息子で、ノアイユ伯爵夫人の兄)と交遊。ルーマニア貴族のアントワーヌ・ビベスコ(フランス語版)(母エレーヌはノアイユ伯爵夫人の従姉妹)と知り合い親交を結ぶ。イギリスの思想家ジョン・ラスキンの著作を耽読。
1900年28 - 29歳。ルアンを訪問。1月、ジョン・ラスキンが死去。ラスキンの追悼記事、評論研究などを発表。マリー・ノードリンガーや母の協力でラスキンの翻訳に着手。ラスキンの著書を元に教会建築を巡る。5月、母と共にヴェネツィアに滞在し、10月に再訪。一家はクールセル街45番地に転居。
1901年29 - 30歳。ラスキンの翻訳作業に没頭し各地の教会を訪ねる。レオン・イートマンと共にアミアンを訪問。アントワーヌ・ビベスコの紹介でベルドラン・ド・フェヌロン(フランス語版)と知り合い、強い愛情を抱く。
1902年30 - 31歳。ビベスコとフェヌロンと共に『トリスタンとイゾルデ』を聴く。


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