マルセル・プルースト
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プルーストは、厚生官僚でもあった父親の職からフランス社会の中枢近い環境で育ったが、母方の影響も深く、異教的・東洋的な面も持ち合わせていた[9]

1894年に始まったユダヤ人大尉アルフレド・ドレフュスの冤罪事件である「ドレフュス事件」に関しては、プルーストは早くから関心を持っていた[21]1898年1月に、ドレフュスをスパイに仕立て上げるための文書を偽造したエステラジーが無罪とされ、彼を告発したジョルジュ・ピカール大佐が逆に収監されると、プルーストは骨折ってピカールのもとに自著『楽しみと日々』を送り届けている。

同月14日の『オーロール紙』に掲載された再審を求める「知識人宣言」にもプルーストは署名を寄せ、ドレフュスの弁護により名誉毀損で訴えられたエミール・ゾラの裁判も熱心に傍聴していた[10]。プルーストは親ドレフュス派の立場を鮮明にしたことで親しい人々との間でも意見の対立に引き裂かれることになり、例えば反ドレフュス派であった彼自身の父とも一時仲違いをした。

「ドレフュス事件」は彼の小説『ジャン・サンタトゥイユ』で直接的に大きく扱われるが、『失われた時を求めて』では、社交界で言及される中心的な話題の1つとして取り上げられる程度になっている[21]。そこには、文学に政治的テーマを直接入れる必要性はないという考えになったことと、プルースト自身が右派のアクション・フランセーズの機関紙を定期購読するような政治的保守になり、「ドレフュス事件」に対する考えも変化したためであった[21]
主要な著書
楽しみと日々(Les Plaisirs et les Jours

1896年に出版された最初の著作で、短編小説や散文・韻文詩、人物描写、断章などからなる創作集[26]。タイトルはヘシオドスの『労働と日々』をもじっている[26]。マドレーヌ・ルメール夫人の水彩による挿絵と、レイナルド・アーンのピアノ曲、およびアナトール・フランスによる序文が付けられ、1893年にチフスで急逝したウィリー・ヒースに捧げると付されている[5][26]。出版費用はプルースト自身が出しており、一種の自費出版である[26]。収められている作品の大部分は同人誌『饗宴(フランス語版)』や文学雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』に発表されていたもので(ここで初めて発表された「若い娘の告白」もあり、収録されなかった「夜の前に」もある)、象徴派的な色合いが濃く、憂鬱、悔恨、夢想、忘却、死、愛、官能などの語句が頻繁に出て来る[26]。構成に工夫があり、時系列順ではなく短編小説で他の作品を挟み込むような形で、また作品の主題も円環をなすように配列されている[26][57]
ジャン・サントゥイユ(Jean Santeuil)
1895年から1899年頃にかけて書かれた自伝的小説。これは断片的な草稿に留まったまま中断されて日の目を見ず、プルーストの死後1952年にベルナール・ド・ファロワの編集によって出版された[27]。書かれている主題・エピソードは『失われた時を求めて』と重複するものが多く含まれるが、プルーストの実生活をより直接反映したものとなっており、また作者自身の願望、夢も多く現れている[27]。文体はまだ『楽しみと日々』のそれや17-18世紀の偉大な著述家の模倣に留まっており、いまだ『失われた時を求めて』のような堅牢な文体を示していない[58]
ラスキンの翻訳
1890年代後半からジョン・ラスキンに興味を抱いていたプルーストは、そのラスキン研究の成果として1904年にラスキンの著書『アミアンの聖書』、1906年に『胡麻と百合』の翻訳を、長大な序文と膨大な注釈をつけて刊行している[28][29]。ただしプルースト自身は外国語(英語)がほとんどできず、これらの訳は外国語に堪能であった母親ジャンヌが行なった下訳を元に、イギリス人の友人マリー・ノードリンガー(レイナルド・アーンの従妹)や[注釈 3]キップリングの翻訳家ロベール・デュミエール(フランス語版)らの助言を乞いつつ文章を整えて作られたものであった[29]。しかしプルーストはラスキンを通じて、ものの色彩や形態、感情の微妙なニュアンスを識別する能力[29]、それらをフランス文学においては異例な複雑な統語法による長大な文章に定着させる技術を学ぶという収穫を得た[29][59]
模作と雑録(Pastiches et Melanges)
物まねが得意であったプルーストはまた文体模写(パスティッシュ)にも才能を発揮しており、1908年から1909年にかけ当時ロンドンで起きた「ルモワーヌ事件」と呼ばれる詐欺事件(ルモワーヌというフランス人技師がダイヤモンドを人工的に作る方法を発明したと称してダイヤモンド鉱山会社から金を騙し取ったもの)を題材に、フランスの様々な古典作家の文体を真似た戯文を『フィガロ』紙に発表した[60]。対象となった作家はバルザックミシュレゴンクール兄弟フローベールサント・ブーヴなど8人で、プルーストはさらに多数の作家の文体模写を加えて大規模な模作集を作る計画も持っていたが実現せず、上記の作家にサン・シモン1人を加えた内容のものが1919年に刊行の『模作と雑録』に収録された[60][61]
サント=ブーヴに反論する(Contre Sainte-Beuve)
1908年ころ、上述の模作をきっかけにして、プルーストは批評家サント・ブーヴに対する批判を中心とした評論作品を書こうと思い立った[33][60]。サント=ブーヴはフローベールなどと同時代の人物だが、彼は文学作品とその作者の日常的な実人生や人となりとを不可分のものと考えて批評を行い、バルザックやスタンダール、フローベールなど、プルーストが敬愛していた作家たちをその観点から低く評価していた[33]。プルーストはこれに対して、作家の外面・表層的な自我と、より深層にある自我とは別のものだという観点から、作家の外的生活を離れて作品と向き合うという文学観を提示することで、これらの作家を低評価から救おうとしたのである[33]。プルーストはこのエッセイ評論と同時に小説断片も書き進めており、当初の予定では前半を小説、後半を評論としてまとめた1つの作品「サント=ブーヴに反論する――ある朝の思い出」(仮題)にするつもりであった[33]。しかし出版先を探しながら書き直していくうちに構成が変わっていき、これが『失われた時を求めて』へと発展していくことになった[33]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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