マルコ・ポーロ
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注釈^ 正確な根拠は無いが、この肖像画16世紀ローマのモシニョール・バディア画廊で描かれたものである。碑文には、「Marcus Polus venetus totius orbis et Indie peregrator primus」とあり、これは辞書『Nordisk familjebok』(1915年)にも採録されている。
^ ほとんどの出典がこの年を採用しており、ブリタニカ百科事典(2002年版、p571)でも「1254年前後生まれ(これは、彼の人生における主要な出来事のほとんどと同じく推測の域を出ない)。」と書かれている。
^ 他の説を紹介する文献もあり、例えばBurgan, 2002, p. 7では生誕地をダルマチア(現在のクロアチア)のコルチュラ島だったとしている。 ⇒Korcula infoでも「完全なる証拠が揃っているわけではないが、(マルコ・)ポーロがコルチュラ島で生まれたという伝説がある」と述べ、同島には「マルコ・ポーロ生誕の地」が存在する[8]
^ Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプの油[36]
^ チベットの僧侶にしてクビライに仕えたパクパが残した日記によると、1271年にハーンの異邦の友人が訪れたことが記されている。これがマルコ・ポーロ一行だった可能性はあるが、そこに来訪者の名前は無い。この一件がマルコらを示していないとすれば、彼らが到着した年は1275年(愛宕松男の説によれば1274年)ではないかと考えられる[41]
^ 陳舜臣『中国の歴史』(五)p361-362では、マルコ・ポーロはペルシャ語は理解できたが「漢語」には通じていなかったとある。クビライの臣下には「色目人」と呼ばれる西域人(ヨーロッパ人のマルコもこの中に入る)が多数おり、彼らは本俗法という出身地の習俗を維持することが認められていたため、必ずしも中国語に精通する必要性が無かった。
^ Parker, 2004, pp=648?649の表記に倣うが、ラルース、p377ではアルグン・ハンは妃到着の直前に死去したとある。
^ Then there are sheep here as big as asses; and their tails are so large and fat, that one tail shall weigh some 30 lb. They are fine fat beasts, and afford capital mutton.


訳:次に、ここにはロバと同じ程度の大きさのヒツジがいる。その長く太い尾は1本で30ポンド(約13.6キログラム)はあろう。すばらしく太ったその家畜は、良質なマトンの供給源となる。[65]
^ ただし、マルコ・ポーロの方位磁石が地中海の羅針盤に直接繋がったとは言いがたい。ヨーロッパの羅針盤は1302年にフラビオ・ジョイアが発明したという伝説があるが、これも実際は他の地域から導入されたものである。応地利明著『「地図世界」の誕生』(日本経済新聞社、ISBN 978-4-532-16583-3、p197)では、この導入ルートを中国から受容したアラブ世界という説と、バルト海域のノルマン人航海者からの伝播という説を紹介している。

脚注^ “Marco Polo 。Biography, Accomplishments, Facts, Travels, & Influence 。Britannica” (英語). www.britannica.com. 2022年10月19日閲覧。
^ a b c 阪田蓉子. “ ⇒図書の文化史” (PDF). 明治大学. 2010年7月17日閲覧。
^ a b c d e f g h i 片山幹生「 ⇒マルコ・ポーロ『世界の記述』における「ジパング」」『Azur』第6巻、成城大学、2005年、19-33頁、ISSN 21887497、CRID 1050001202582117376、2023年5月19日閲覧。 
^ a b 木村榮一. “風の頼りU(第24回)”. 神戸市外国語大学. 2011年2月19日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2010年7月17日閲覧。
^ ラルース、p377
^ a b Landstrom, 1967, p=27
^ Bergreen, 2007, p=25


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