マルコ・ポーロ
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アジアへの旅詳細は「#マルコ・ポーロの旅」を参照旅の行程

1269年、ニッコロとマテオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。そして1271年後半[3]に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。

一行は船でアクレに渡り、そこから陸路でホルムズへ向かった。その途上、新教皇決定の知らせを受けて一旦エルサレムに戻り、教皇グレゴリウス10世からクビライに宛てた手紙を預かり、再び東へ向かった[14]

一行がの都・上都へ到着した時、マルコは21歳になっていた[15]。 一行はクビライに気に入られ元の役人として登用され、マルコは外交使節としてインドビルマを訪れた。彼は帝国領内や東南アジア(現在のスリランカインドネシアベトナム)各地を訪れ、任務の傍ら現地で見聞きしたことを語ってクビライを楽しませた。マルコ達は足かけ17年間を中国で過ごした[16]

マルコ達は何度もクビライに帰国を願い出ていたが、彼らとの交流を楽しみ、また有能な人材として評価していたクビライは当初はそれを拒み続けた[17]。 しかし1291年、遂に帰国を許され、イルハン国アルグン・ハーンに嫁ぐ皇女コケジンへの随行を最後の任務として命じられた[15]。任務を終えたマルコ一行がコンスタンティノープルを経て[15]ヴェネツィアへと戻ったのは出発から24年後の1295年、全行程15,000kmの旅であった[18]
後半生

帰国から3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは所有するガレー船を投石機で武装させてヴェネツィア軍の一員として参戦した[19]。そして1296年、アナトリア沿岸のアダナイスケンデルン湾の間の海域で行われた小規模な海戦で[20]ジェノヴァ軍に捕らえられた[4][21]

数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた著述家のルスティケロ・ダ・ピサであった[3][22]。しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまった。この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』 (Il Milione) として有名になり、中国、インド日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらした[23]

マルコは1299年8月に釈放され[22]、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部サン・ジョヴァンニ・クリソストモ地区に購入した広大な屋敷「Corte del Milion」に戻ることができた[24]。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はヴェネツィアを離れなかった[24]1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し[25]、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれた[26]
死去ヴェネツィアのカステッロ地区(英語版) にあるサン・ロレンツォ・ディ・ヴェネツィア教会。マルコ・ポーロが埋葬されている。写真は再建されたもの。

1323年、病気になったマルコは枕も上がらなくなった。翌年1月8日、医師の努力も空しく死期が迫ったマルコは財産分与を認め、亡くなった。遺言の公認を聖プロコロ教会の司祭ジョバンニ・ジュスティニアーニから得た妻と娘たちは正式に共同遺言執行者 (en) となった。遺言に基づいて教会も一部の地権を受け、さらに多くの遺産分与をサン・ロレンツォ教会に行なって遺体を埋葬された[27]。また、遺言にはマルコがアジアから連れてきたタタール人奴隷を解放するよう指示されていた[28]

マルコは残りの遺産についても、個人や宗教団体、彼が属したギルドや組織などへの配分を決めていた。さらに、彼は義理の姉妹が負っていた300リラの借金や、サン・ジョバンニ修道院、聖ドミニコ修道会のサン・パウロ教会または托鉢修道士(英語版)のベンヴェヌートら聖職者が持つ負債の肩代わりもした。ジュスティニアーニ司祭には公証人役への報酬、また信者からとして200ソリドゥスが贈られた[27]

マルコの署名は無かったが、「signum manus」の規則が適用され有効なものとされた遺言状は、日付が1324年1月9日になっていた。規則により遺言状に触れる者は遺言者だけと決められていたため、マルコの没日は9日ではないかとの疑問も生じたが、当時の1日は日没で日付が変わっていたため、現在で言う8日深夜であった可能性もある[27]
マルコ・ポーロの旅「東方見聞録」を参照『イル・ミリオーネ』 (Il Milione) のミニアチュールマルコ・ポーロ存命中に発刊された『イル・ミリオーネ』の一ページ

マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ[9]、140種類を超える[2][9]写本間にも有意な差が見られる。初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年にドイツ語で初めて活字化され、1488年にはラテン語およびイタリア語で出版された[21]。しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、ヘンリー・ユールによる英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがある。

同じ英語翻訳でもA.C.ムールとポール・ペリオが訳し1938年に出版された本では、1932年にトレド大聖堂で発見されたラテン語本を元にしているが、他の版よりも5割も長い[29]

このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られている[2]印刷機の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多い[30]。これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われている[3]
内容

本は、ニッコロとマテオがキプチャク・ハン国ベルケ王子が住むボルガール[31]へ向かう旅の記述から始まる。1年後、彼らはウケクに行き[32]、さらにブハラへ向かった。そこでレバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがないクビライと面会する機会を設けた[33]


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