マルコム・マクリーン
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弱小企業であり運賃の安さでしか相手にして貰えなかったため、競争で勝ち抜くため創業当時からコスト意識が高く[11]ガソリンエンジンが主流だった時代にディーゼルエンジン車両の採用、大口割引契約による指定給油所での給油、空気抵抗により燃費が変わるため、空気抵抗を減らす新技術を採用したトレーラーの採用、保険費用を減らすため新人とベテランによるチーム作りを行い、新人が年間通し無事故の場合、ベテランに1月分のボーナスを支給する制度を採用し大幅に事故を減らすことにも成功した。また、銀行からの融資もコストを考慮しており、復員軍人が個人事業主として起業する場合、政府が低金利で融資する制度があったため、この制度を利用した復員軍人によるトラック購入と持ち込み制度での積極採用を行ったことでマクレーン運送への低金利融資と変わらぬ結果となった[12]。1950年代には全米初となるプログラムマネジメントを取り入れるため採用した新卒社員を研修に送り出している[13]

陸運会社として大成したがこれで満足しておらず、モータリゼーションの発展によって渋滞が顕著になったことに頭を悩ませており、沿岸海運企業が第二次世界大戦で過剰になった戦時標準船をタダ同然で譲り受けることが出来たため、いずれ陸運の仕事が奪われるのではないかと危惧しており、1953年「混雑した沿岸地域を走行する位ならトレーラー毎船に乗せて運んでしまえばいいのではないか?」と閃いており、この年の冬に具体的な計画案を立てており[14]、これが門外漢マクレーンが海運事業に進出する契機となった。
コンテナ化「沖仲仕」も参照

貨物を「箱」に入れて輸送するアイデアは古くからあり、19世紀後半にはイギリスフランスの鉄道会社によって家具を木箱に詰め運搬している。第一次世界大戦後、トラックが民間にも普及したことで、シンシナティの運送会社はマクレーンが発明した方法とまったく同じアイデアを思いついており、アメリカで最初にコンテナを取り入れたのは、1920年ニューヨーク・セントラル鉄道によるスチール製の物であった[15]1926年にはサザン鉄道北部鉄道によって運行されたロンドンからパリへの豪華列車「ゴールデン・アロー号/フレッシュ・ドール号」において乗客の手荷物輸送に関し4つのコンテナが使用されている。これらのコンテナはロンドンまたはパリ列車に積載され港まで運ばれている。ドーバー港ではイギリスによるフラットカーによって運搬され、カレー港ではフランスの北部鉄道の貨車によって運搬が行われている[16]。当時、小型のコンテナは船にも積載されているが、これは沖仲仕(港湾労働者)によるバラ積みとの混載方式であった[17]

マクレーンが1953年に初めて計画した海上輸送案は現代で言うRO-RO船フェリー)方式であった[18][19]。当時の法律では陸運と海運は完全に別扱いとなっており、船は移動速度が遅いため鉄道やトラックに比べ安い運賃設定が認められていた。マクレーンは渋滞回避だけでなくコストが安いことにも惹かれており、この制度により同区間で競争相手よりも低い運賃設定が可能となるため、この年の末にターミナル構築に向けた用地買収に乗りだしている。1950年代の沿岸海運業界は不況であった1930年代の半分にまで落ち込み瀕死の状態であった。政府からの投資もほぼゼロに近い状態であり、かつて木材の集積港として栄えた姿は見る影も無く、ニューアーク港を管轄するニューヨーク港湾局(現:ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社)は港湾事業を活性化させようと必死であった[18]。ニューヨークの対岸となるニューアーク港はマクレーンが理想とする広大な用地が広がっており、マクレーンのコンテナターミナル構想は港湾公社局長と部長の心を奪う結果となり、公人として初となる支持を表明した。港湾公社には歳入担保債を発行する権限を有していたため、港湾局が建設を行い貸し出すことが可能となるため、マクレーンが直接投資する必要が無い点もまた好都合であった[18]

こうしてターミナル建設が開始されるとマクレーンは海運企業の買収を目論んでいる。これは運輸法から陸運企業が海運企業を保有することを禁じており、法律違反となるためICCの認可が得られるはずも無く、海運企業の権利を得るため必要な手段であった[20]。検討の結果、ニューヨークを含む16の港に寄港できる権利を持つ「パン=アトラック・カンパニー」を子会社に持つアラバマ州モービルに本社を構える「ウォーターマン海運」に目を付けており、4,200万ドル(約46億4千万円)での買収を開始している。ここでICCの規制を回避するため新会社「マクレーン・インストリーズ」を設立し、CEOとして就任。マクレーン・トラッキング・カンパニーの株式は信託に移管する形で辞職し、ウォーターマン海運の買収を開始しており、これはアメリカ初のレバレッジド・バイアウト(LBO)案件となった[21]。海運企業の権利を得たことでコンテナリゼーションの本格的な幕開けとなった。最終的にマクレーン・トラッキング・カンパニー全株式を売却し、多額の売却益を得ているが、資金運用は一切せず、マクレーン・インストリーズに保有する全資産をつぎ込んでいる[20]


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