キケロの名前に由来するイタリア語の「チチェローネ」という言葉は「案内人」を意味するが、ギリシア哲学の西洋世界への案内人として果たした多大な影響をよく物語っている[4]。
生涯
出自の祖先はアルピヌムの王の一人であるという[5]。アルピヌムは紀元前303年に投票権なき市民権を得ており、紀元前188年に完全なローマ市民権を付与された[1]。キケロの生まれた頃には、マリウス氏族、グラティディウス氏族、そしてトゥッリウス氏族がこの街で最も有力な氏族となっており[6] 、キケロの父の代からエクィテスの地位を得ていた[7]。
キケロの祖父は紀元前115年にマルクス・アエミリウス・スカウルスに賞賛されたことがあり、キケロが10才の頃、家族と共にローマへ移り住んだ後、恐らくその伝手もあって、ルキウス・リキニウス・クラッスス、マルクス・アントニウス・オラトル、スカエウォラ・アウグル、スカエウォラ・ポンティフェクスといった当代一の雄弁家の従者として学ぶことができた[8]。
キケロというコグノーメンは、「ヒヨコマメ(Cicer)」から来ているが、これは彼の祖先の鼻にイボがあったからだという[7]。キケロは、若い頃に友人から「無名の家名(キケロ家)を避けた方がよい」とアドバイスを受けたが、「私自身の手で、キケロ家をスキピオ家やカトゥルス家より有名にしてみせる」と語ったという[9]。キケロは幼い頃から負けず嫌いで、文筆活動や哲学は余興に過ぎず、政治に関わることこそが美徳であり[10]、政治家として名を揚げることこそが本望であった[11]。 17才となったキケロは、紀元前89年の執政官グナエウス・ポンペイウス・ストラボの下で軍務に就き、翌紀元前88年にはルキウス・コルネリウス・スッラの下で従軍した。ポンペイウスの配下であった時、全く兵士に向いていないので陣地で留守番をさせられていたという[12]。軍務を終えるとすぐに弁論の勉強を再開した。この頃、ポプラレスの英雄ガイウス・マリウスと組んでいた護民官、プブリウス・スルピキウス・ルフス
青年期