レピドゥスは紀元前153年または紀元前152年に死去した[9]。子息に対して、葬儀は簡単に行うように命じたと言われている。即ち、棺は華美にせず、葬儀の費用はせいぜい10アスであった[36]。 レピドゥスには同名の息子がおり、紀元前190年にトリブヌス・ミリトゥムとなっていることは分かっている[8]。その他の息子がいたかは、明確ではない。研究者の中には、紀元前78年の執政官であるマルクス・アエミリウス・レピドゥスの父のクィントゥスがレピドゥスの息子と考えるものもいる[8][38][39]。また、紀元前137年の執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナが息子であると考えるものもいる[38][39]。別の説では、クィントゥスとポルキナはレピドゥスの孫であるとされている[8][40]。
子孫
脚注^ a b プルタルコス『対比列伝:アエミリウス・パウルス』、2
^ Klebs E. "Aemilius", 1893, s. 543.
^ プルタルコス『『対比列伝:ヌマ・ポンピリウス』、8.
^ プルタルコス『対比列伝:ロームルス』、2
^ Klebs E. "Aemilius", 1893 , s. 544.
^ Tsirkin, 2009 , p. 226.
^ カピトリヌスのファスティ
^ a b c d Sumner, 1973 , p. 66.
^ a b c Klebs E. "Aemilius 68", 1893, s. 553.
^ Broughton, 1951, p. 321.
^ ポリュビオス『歴史』、XVI, 25-27.
^ Munzer F. "Claudius 246", 1899, s. 2776.
^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、XXXI, 18, 1-5.
^ ポリュビオス『歴史』、XVI, 34.
^ Broughton, 1951, p. 347.
^ Klebs E "Aemilius 114", 1893, s. 576.
^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXV, approx. 40.