アエミリウス氏族のうち、レピドゥスのコグノーメン(第三名、家族名)を持つもので最初に執政官となったのは、紀元前285年のマルクス・アエミリウス・レピドゥスである[6]。レピドゥスの祖父のプラエノーメン(第一名、個人名)はマルクス、祖父も同じくマルクスである[7]。父は紀元前218年に法務官(プラエトル)に、祖父は紀元前232年に執政官に就任している[8]。 レピドゥスに関する最初の記録は紀元前201年にさかのぼる[9]。この年、元老院は元ケンソルのガイウス・クラウディウス・ネロとプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスをプトレマイオス朝エジプトに派遣しているが、レピドゥスもその一員であった[10]。この使節団の公式の目的は、同盟国であるエジプトのプトレマイオス5世に第二次ポエニ戦争の勝利を報告することであったが、非公式の目的はマケドニアとの戦争が起こった場合のエジプトの支援を得ることであった[11][12]。マケドニアのピリッポス5世はこのときペルガモンとロドスと戦争を行っており、ローマはすでに最後通牒を送っていた。使節団がエジプトから戻ったときには、ピリッポス5世は重要な都市であるアビドス(en
経歴
青年期
クルスス・ホノルムエンポリウム近くのポルティクス・アエミリアの遺跡
紀元前199年、レピドゥスはセルウィウス・スルピキウス・ガルバの死去に伴って神祇官(ポンティフェクス)に選ばれた。紀元前193年[15](紀元前192年説[16]もある)、レピドゥスはアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任した。同僚は親戚のルキウス・アエミリウス・パウルス(後のマケドニクス)であった。両者は、牧畜業者が公有地を不正に使用しているとして[17]非難し、彼らから徴収した罰金でユーピテル神殿を金メッキした楯で装飾した。加えて、リウィウスによれば、エンポリウムの近くとカンプス・マルティウスの近くにポルチコ(アーケード)を新設したが[18]、その遺跡はポルティクス・アエミリア(en)として現存している。
紀元前191年に法務官(プラエトル)に就任するが、同僚法務官はまたもパウルスであった。レピドゥスはシキリア属州総督として赴任した[19]。翌年も前法務官としてインペリウム(軍事指揮権)を継続した[20]。レピドゥスはローマ・シリア戦争でアンティオコス3世とアエトリア同盟と戦うローマ軍に対する食料の供給システムを構築した[21]。
同年(紀元前190年)末、レピドゥスは初めて執政官選挙に立候補した。パトリキからは他にグナエウス・マンリウス・ウルソとマルクス・ウァレリウス・メッサッラが立候補したが、リウィウスによれば、この中では「メッサッラが最有力」であった[22]。しかし、候補者の中で必要得票数を得たのはプレブス(平民)のマルクス・フルウィウス・ノビリオル一人のみであった[23]。