マルクス・アエミリウス・レピドゥス_(紀元前187年の執政官)
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執政官の任期が終了すると、レピドゥスは植民都市パルマとムティナ(現在のモデナ)を建設する三人委員の一人となった(紀元前183年[29]紀元前180年には、ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌスの死去に伴って最高神祇官に就任した[30]。レピドゥスの経歴の頂点は、紀元前179年に政敵であったノビリオルと共に監察官に就任したときである[31]。クィントゥス・カエキリウス・メテッルス(紀元前205年の執政官)が両者を和解させ[32]、その後両者は自制的に行動した。このときの元老院議員名簿改定において、レピドゥスは元老院筆頭(プリーンケプス・セナートゥース)となった。バシリカ・アエミリアアウグストゥスが修復した後の想像図で、レピドウスが建設したときには最上階は無かった

両監察官は多数の新しい義務と税金を導入し、投票手続きを変更し、多くの小さな聖域を公共の場に戻した。大規模な建設工事が開始された。特にレピドゥスはユーノーディアーナに神殿を建立し、劇場建設とユーピテル神殿のしっくい工事の契約を結んだ。またタラッキナ(現在のテッラチーナ)近くにダムを作った。しかし、リウィウスによると「レピドゥスはより多くの契約を結び、より多くの利益を上げた」とされている。また両監察官で協力してフォルム・ロマヌムの北側にアエミリウス・フルウィウスのバシリカを建設したが、単にアエミリウスのバシリカと呼ばれることも多い[33]
執政官II

紀元前177年、レピドゥスは植民都市ルナ建設の三人委員に就任した[34]紀元前175年は二度目の執政官に就任。同僚執政官はプブリウス・ムキウス・スカエウォラであった。両執政官はリグリアに勝利し、ローマに戻って凱旋式を実施した[35]

それから死去するまで、レピドゥスは元老院筆頭に留まった。5年に一度監察官が改定する元老院議員名簿では、6回(30年)に渡って名簿の最上位に名前があったこととなる[36]。この名誉と最高神祇官の地位、さらには執政官と監察官経験者としての権威のため、レピドゥスはローマの支配層の中でも特別の地位を占めた。現代の歴史学者には、レピドゥスは第二次ポエニ戦争ハンニバルに勝利した英雄であるスキピオ・アフリカヌスの後継者的な地位にあったと見るものもある[37]

レピドゥスは紀元前153年または紀元前152年に死去した[9]。子息に対して、葬儀は簡単に行うように命じたと言われている。即ち、棺は華美にせず、葬儀の費用はせいぜい10アスであった[36]
子孫

レピドゥスには同名の息子がおり、紀元前190年トリブヌス・ミリトゥムとなっていることは分かっている[8]。その他の息子がいたかは、明確ではない。研究者の中には、紀元前78年の執政官であるマルクス・アエミリウス・レピドゥスの父のクィントゥスがレピドゥスの息子と考えるものもいる[8][38][39]。また、紀元前137年の執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナが息子であると考えるものもいる[38][39]。別の説では、クィントゥスとポルキナはレピドゥスの孫であるとされている[8][40]
脚注^ a b プルタルコス対比列伝アエミリウス・パウルス』、2
^ Klebs E. "Aemilius", 1893, s. 543.
^ プルタルコス『『対比列伝:ヌマ・ポンピリウス』、8.
^ プルタルコス対比列伝ロームルス』、2
^ Klebs E. "Aemilius", 1893 , s. 544.
^ Tsirkin, 2009 , p. 226.


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