マルクス・アエミリウス・レピドゥス_(紀元前187年の執政官)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

加えて、リウィウスによれば、エンポリウムの近くとカンプス・マルティウスの近くにポルチコ(アーケード)を新設したが[18]、その遺跡はポルティクス・アエミリア(en)として現存している。

紀元前191年法務官(プラエトル)に就任するが、同僚法務官はまたもパウルスであった。レピドゥスはシキリア属州総督として赴任した[19]。翌年も前法務官としてインペリウム(軍事指揮権)を継続した[20]。レピドゥスはローマ・シリア戦争アンティオコス3世アエトリア同盟と戦うローマ軍に対する食料の供給システムを構築した[21]

同年(紀元前190年)末、レピドゥスは初めて執政官選挙に立候補した。パトリキからは他にグナエウス・マンリウス・ウルソマルクス・ウァレリウス・メッサッラが立候補したが、リウィウスによれば、この中では「メッサッラが最有力」であった[22]。しかし、候補者の中で必要得票数を得たのはプレブス(平民)のマルクス・フルウィウス・ノビリオル一人のみであった[23]。規定によってノビリオルが同僚となるパトリキ執政官を指名できることとなったが、ノビリオルはレピドゥスの政敵であったこともあり、ウルソが指名された[24]。1年後、レピドゥスとメッサッラは再び執政官に立候補したが、ノビリオルが選挙の管理官だったこともあり、メッサッラが当選した[25]
執政官I

しかしリピドゥスはその翌年も立候補してついに当選、紀元前187年の執政官に就任した。同僚執政官はガイウス・フラミニウスであった[26]。この年、東方に出征していたノビリオルとウルソがローマに帰還すると、彼らに対する訴訟がなされた。レピドゥスは何れの場合も原告側を支援し、彼らの凱旋式の実施を阻止しようとした。ウルソを訴えたのは、アンティオコスとの講和交渉を行った10人委員会であり、その中にはリピドゥスの元同僚のルキウス・アエミリウスも含まれていた。訴訟の理由はウルソが当初の合意に反してアンティオコスを捕らえようとしたこと、ガラティアに対する戦争を元老院の承認を得ずに始めたこと、条約交渉においてペルガモンの利益になるように働いたこと、トラキアで現地部族に襲撃された際に有効な反撃ができなかったこと、であった。ノビリオルを訴えたのはアンブラキアの外交使節で、アンブラキアに対する攻撃を開始した責任、残虐行為と講和後の美術品略奪が理由であった。ガイウル・フラミニウスはノビリオルを支持した。元老院はノビリオルに略奪品をアンブラキアに返却するように求めたが、最後にはウルソ、ノビリオルに凱旋式の実施を許可した[25][27]現在のエミリア街道(ボローニャ

ローマ・シリア戦争が終結したため、レピドゥスとフラミニウスの両執政官ともに、イタリア北部のリグリアで戦うこととなった。レピドゥスは一度の会戦で勝利し、アペニン山脈の両側の多くの部側を支配下に置き、リグリア人を山岳部から平野部へと移動させた。その地域でのローマの権力を確実なものにするため、レピドゥスはアリミヌム(現在のリミニ)からプラケンティア(現在のピアチェンツァ)まで街道を建設した。この街道はフラミニウス街道と連結し、アエミリア街道と呼ばれることになる[9]、途中のカストラ(大規模な野営地の意味だが、この場合は工事拠点)は彼の名前からレギウム・レピディ(現在のレッジョ・エミリア)と名づけられた。ガリア・キサルピナのケノマニ族(en)がレピドゥスを頼り、法務官マルクス・フルウィウス・クラシペダを訴えて来た際には、レピドゥスはケノマニ族に有利な決定をしている[28]
ケンソル

執政官の任期が終了すると、レピドゥスは植民都市パルマとムティナ(現在のモデナ)を建設する三人委員の一人となった(紀元前183年[29]紀元前180年には、ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌスの死去に伴って最高神祇官に就任した[30]。レピドゥスの経歴の頂点は、紀元前179年に政敵であったノビリオルと共に監察官に就任したときである[31]。クィントゥス・カエキリウス・メテッルス(紀元前205年の執政官)が両者を和解させ[32]、その後両者は自制的に行動した。このときの元老院議員名簿改定において、レピドゥスは元老院筆頭(プリーンケプス・セナートゥース)となった。バシリカ・アエミリアアウグストゥスが修復した後の想像図で、レピドウスが建設したときには最上階は無かった

両監察官は多数の新しい義務と税金を導入し、投票手続きを変更し、多くの小さな聖域を公共の場に戻した。大規模な建設工事が開始された。特にレピドゥスはユーノーディアーナに神殿を建立し、劇場建設とユーピテル神殿のしっくい工事の契約を結んだ。またタラッキナ(現在のテッラチーナ)近くにダムを作った。しかし、リウィウスによると「レピドゥスはより多くの契約を結び、より多くの利益を上げた」とされている。また両監察官で協力してフォルム・ロマヌムの北側にアエミリウス・フルウィウスのバシリカを建設したが、単にアエミリウスのバシリカと呼ばれることも多い[33]
執政官II

紀元前177年、レピドゥスは植民都市ルナ建設の三人委員に就任した[34]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef