マルクス・アウレリウス・アントニヌス
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従って後の皇帝としての方針に父の影響がどの程度あったのかは不明であるが、彼自身は「自省録」で彼が「謙虚と剛毅さ」を父の思い出と死後の話で学び知ったと語っている[21]。母ドミティアは再婚しなかったが[19]、当時の貴族階級にとっての常として子供の養育は家庭教師や侍従達に任せていた[22]。一方で貴族としての優雅な生活で堕落しないように「宗教的な敬虔さ」と「粗食」を躾として教えられたという[23]。アウレリウスは母親についての感謝を述べる手紙を書き残している[24]

父の死後、アウレリウスは祖父ウェルス2世に引き取られ[25]、ルキウス・カティリウス・セウェルスという男性が養育を手伝った。ルキウス・カティリウスは「母方の曾祖父」と言われ、恐らくは大ドルシッラの継父であったと見られている[25]。アウレリウスは彼の両親が残したカエリウスの丘にある邸宅で過ごし[26]、そこは僅かな公共施設を除けば殆どが貴族の別荘からなる高級住宅街であった。また祖父はラテラノ大聖堂の近くに邸宅を持ち、アウレリウスにとって馴染み深い場所となった[27]。祖父の教育については「良心と自制心」を教わったと書き残しているが[28]、祖父が祖母の死後に連れてきた妾とは折り合いが悪かったという[29] 幸いにして妾が出入りするようになって直に家から出られた事を、アウレリウスは幸運だったと述べている[30]

アウレリウスは当時の貴族階級の常として、家庭教師による教育を受けている[31]。これは曽祖父カティリウス・セウェルスの意向によるところだったとアウレリウス自身が述べている[32]。ディオゲネトゥスという教師から特に深い影響を受け、哲学的な生活様式を学んだ[33]。132年4月、アウレリウスはディオゲネトゥスと同じ哲学者風の衣服で過ごし始め、母親から窘められるまでベッドではなく地面で寝ていたという[34]。133年からはアレクザンデル[notes 4]という人物が何人かの教師と共に赴任した[36]。アレクサンデルは当時のローマ帝国で、ホメロスの研究によって知られた文学者であった[37]。アウレリウスは彼から修辞法を学んでおり[38]、「自省録」の文体にその影響が見られる[39]
ハドリアヌス帝による寵愛ハドリアヌス胸像

127年、叔母ファウスティナ・マイヨルの親族であるハドリアヌス帝の推薦を受けて、アウレリウスは6歳の時に騎士名簿へ登録された。少年時代に騎士階級へ叙任された事については、アウレリウス以前にも全く例がない訳ではないが、極めて珍しい出来事であった。更に翌年にはサリイという聖職の為の学校へ推薦されたが、入学規定を満たしていなかったアウレリウスの為に規定を改訂させている[40]。ハドリアヌスはアウレリウスを寵愛しており、ウェリッシムス(Verissimus)という渾名で呼んでいた[41][notes 5]。アウレリウスは神学校で熱心に学び、優れた聖職者としての素養を得た[43]。一方でハドリアヌスは帝都ローマに留まらず、各属州への巡行に時間を費やしていたので、アウレリウスと直接会う機会はそれほどなかった[notes 6]

135年、ハドリアヌスが久しぶりにローマに戻った時、アウレリウスは皇帝の重臣ルキウス・アエリウス(ハドリアヌスを暗殺しようとしたガイウス・アウィディウス・ニグリヌスの娘婿で、ルキウス・ウェルスの父)の腹心に成長していた。


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