マリ王国
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口承伝統を利用することで、マリの歴史を外部からではなく内部から知ることができる[7]

さらに発掘調査による出土資料も重要な史料となりうると言われている[12]
首都探し「ニアニ」および「カンガバ」も参照バクリーの地理書には Melil という地名が確認できる。イドリースィーの地理書にも Melil という地名が確認できる。

欧米諸語で国号として認識されている "Mali"(日本語では「マリ」)は、イブン・バットゥータの『リフラ』において、この国が "?????‎ と記載されていることに基づく[前近代の文献 1]。その200年前に書かれたバクリーの『諸道と諸国の書(英語版)』にもガーナのみやこの近くに "???‎"(ド・スラーヌ(英語版)は "Melil" と母音を入れた)という集落があるという情報があり、イドリースィーにも同様の情報がある。イブン・ファドルッラー・ウマリーは、マリの国号は正式には「ニアニ」といい、それは首都の名前であるという旨の情報を書いている。
初期の仮説 (1841-1912)

近代以後にマリの首都の所在地について最初に議論したのは、大英帝国の地理学者ウィリアム・デズボラ・クーリー(英語版)である。クーリーは1841年に、マリの首都がジョリバ川(ニジェール川上流域の別名)のほとり、サメエの村あたりにあったとする仮説を発表した[13]ハインリヒ・バルトは、1850年代にアフリカ大陸の内陸を探検してトンブクトゥまで行ったが、マリの首都であった場所を見つけることはできなかった。フランス植民地官僚のルイ=ギュスターヴ・バンジェ(フランス語版)は、1892年にサーヘル地帯を横断して、ヤミナ(Yamina)の近くにあるニアニマドゥグ(Niani-Madougou)遺跡がマリの首都であった場所という説を発表した。

これまでの仮説はすべて、首都がニジェール川の左岸にあったとする点では共通する。また、まったく文献資料に依拠していなかった[14]。初めてこれらの説に理由付けを与えたのがモリス・ドゥラフォスである。ドゥラフォスは Haut-Senegal-Niger (1912) のなかでバンジェの説がアラビア語文献の記載と矛盾しないことを示し、当初の間はバンジェ説を支持した。
「ニアニこそがマリの首都である」 (1923-1958)

この頃が首都論争の最も華やかであった時代である。ヴィダルやガイヤールなどが一連の論説を発表し、サンカラニ川(英語版)のほとりにある小さな村こそが文献史料にある地名、ニアニであるという説を唱えた[15][16]。ドゥラフォスもニアニ説を支持した。1920年代には実地調査も行われたが、遺跡は見つからなかった。1958年にギニアが独立し、ニアニ村は新生ギニア共和国に属すことになった。発掘や調査は中断する。
ニアニにおける考古学的調査 (1965-1973)

ニアニ村は1965年、1968年、1973年と、3回にわたり考古学的発掘調査の対象になった。ヴワディスワフ・フィリポヴィアク(ポーランド語版)教授率いるポーランド隊が発掘を行った。ポーランド人たちはD. T. ニアヌの協力も得、レモン・モニ(フランス語版)[注釈 1]から適宜助言を得て調査を続け、成果が1979年に発表された。Etudes archeologiques sur la capitale medievale du Mali と題された調査報告書では「マリ王国の首都がニアニにあったことが確認された」とされた。

ポーランド隊の結論には問題があると早くから言われていた。調査報告書が刊行される前から、メイヤス(Meillassoux)とハンウィック(Hunwick)はイブン・バットゥータの旅行記の読み直しを通してフィリポヴィアク説を批判して、首都のあった場所について新説を発表した。レモン・モニはフィリポヴィアクが行った放射性炭素年代測定法に関する記述に矛盾があることを指摘した[17]
「ニアニ遺跡=首都」説の検証をめぐって・新しい仮説

全盛期マリの首都と目された場所のすべてが否定されることとなった状況に直面し、より原始的なマリ王国像を提示する研究者が現れた(Conrad, Greennなど)。コンラッドやグリーンら、英米の研究者は、「首都」(capitale)という用語に代えて、「マンサの宮廷」(cour des Mansa)あるいは「マンサの王宮」(cour royale des Mansa)という中立的なタームを使って、宮廷が複数の町の間を巡回移動していたとする「ノマド型宮廷」仮説を提示した[18]。当該仮説によっても疑問は残り続ける。これまで研究されてきた遺跡からはこの説を支持する確かな証拠が得られていない。しかし研究は端緒についたばかりで、その後疑問を払拭するかも知れず、過去の研究の検証と新説の提唱が待たれる。
歴史
建国14世紀半ば、最盛期のマリが支配権を及ぼした領域とサハラ交易路15世紀のセネガル川河口から上流を示す図、金の川と記される。

それまで西部サヘル地方を支配していたガーナ王国1076年ムラービト朝によって首都クンビー・サーリフ(英語版)を落とされ勢力を大きく減退させ、ムラービト朝もすぐに衰退すると、この地域には覇権勢力が存在しなくなった。その中でソソ人(英語版)のソソ王国(英語版)が12世紀末に入ると勢力を伸ばし、ニジェール川上流のマンデ人(英語版)をも支配下に置いていた。

この状況下で、伝説的英雄スンジャタ・ケイタが現れ、マンデの各クランを糾合した[1]。スンジャタは1235年にキリナの戦い(英語版)でソソの王スマングルをやぶり、さらにその後、セネガル川流域の地方にまで勢力を伸ばした[1]
最盛期

その後、14世紀には西は大西洋岸まで、東はトンブクトゥガオまで、南はブレ(フランス語版)・バンブクにある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。スンジャタ・ケイタの死後は長男のマンサ・ウリ・ケイタが継いで領土をさらに拡大した。その後一時王位継承に伴う混乱が生じたが、1298年にマンサ・サクラが即位して混乱を収拾した[19]

14世紀には王のマンサ・ムーサ(マンサは「王の中の王」の意、在位:1312年 - 1337年)と、マンサ・スレイマン(英語版)(在位:1341年 - 1360年)のもとで帝国は最盛期を迎えた。マンサ・ムーサは、1324年ムスリムとして数千人もの従者を引き連れてメッカ巡礼し、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたため、ウマリーによるとカイロの金の価値が長期にわたって下落した[20]。王はマリに戻ると、イスラム教とイスラム文化を進んで住民に広めている。トンブクトゥにジンガリベリ・モスクを建設し、ここが学問の中心地となる端緒を作ったのもマンサ・ムーサ治下のことである。

マンサ・スレイマンの統治期も、マリは変わらず繁栄を続けていた。1352年にマリを訪れたベルベル人の旅行家イブン・バットゥータは、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している[前近代の文献 1]
覇権の喪失と領土の西遷1530年ごろのマリ領土

しかし、1387年にマンサ・ムーサ2世が没すると、マリでは激しい後継者争いが勃発して国力は疲弊し、そのためソンガイ王国などの従属していた国々が相次いで離反した。また、マリの国力の衰退に乗じて南方のモシ族や北方のトゥアレグ族の侵攻が激化し、1433年にはトゥアレグ人にトンブクトゥを占領された[21]。こうしてマリは自国で最も豊かな地域であったニジェール川内陸デルタを失ったが、一方でブレやバンブクなどのニジェール川上流域の産金地帯は保持し続け、さらに大西洋に面したガンビア川流域なども依然として保持していた[22]1468年にはソンガイ王国のスンニ・アリがトゥアレグを討ってトンブクトゥを占領し、ニジェール川内陸デルタを制圧して西アフリカに覇を唱えるようになってマリとソンガイの力関係は逆転した。その後もマリの国力は緩やかに衰退を続けた。16世紀末にはガンビア川流域も失い、マリは内陸国家となっていた[23]
滅亡1625年ごろのマリ領土

1591年モロッコサアド朝の侵攻によってソンガイ帝国が滅亡すると、その混乱に乗じてマリのマフムード4世は1599年にジェンネへと出兵するもののモロッコに敗れ、これが衰退し続けるマリへの最後の一撃となった[24]。その後マリは地方小国家として細々と存続し、18世紀に滅亡した[25]
制度
交易1375年にマヨルカ島で製作された『カタルーニャ地図(カタルーニャ語版)』には、ベルベル人ラクダに乗って、サハラを越えたところにあるマリの黒人王のところへ交易に向かう様子が描かれている。


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