マリー・テレーズ・ドートリッシュ
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後にグラン・ドーファンの次男アンジュー公フィリップは、ピレネー条約で定められたマリーの持参金が支払われていないことを理由にスペイン王位継承権の放棄は無効であるとし、フェリペ5世として王位を継承した。
子女

3男3女が生まれたが、長男を除いて夭逝した。

ルイ(1661年 - 1711年) - 王太子。グラン・ドーファンと呼ばれる。ルイ15世の祖父、スペイン王フェリペ5世の父。

アンヌ・エリザベート(1662年)

マリー・アンヌ(1664年)

マリー・テレーズ(1667年 - 1672年)

フィリップ・シャルル(1668年 - 1671年) - アンジュー公

ルイ・フランソワ(1672年) - アンジュー公

諸説あり


ルイーズ・マリー・テレーズ (モレの黒い尼僧) (フランス語版, 1658年? - 1732年頃)
ルイーズ・マリー・テレーズ (モレの黒い尼僧)

またの名はルイーズ・マリー・聖テレーズ、モレのモール女。生まれについてはマリー・テレーズ王妃と黒人の小人の小姓ナボ (Nabo) との子、ルイ14世と黒人女性との子、王家に保護された若い孤児の3つの説があるが不明。宮廷が置かれたフォンテーヌブロー城界隈モレ・シュル・ロワン (fr) の修道院で暮らしていた修道女。ルイ14世より年金を受け取っていた。マリー=テレーズ王妃やグラン・ドーファンといった王族やサン=シモン公、モンテスパン侯爵夫人など宮廷の高位貴族が頻繁に修道院を訪ねている[2]
系譜

マリー・テレーズ父:
フェリペ4世 (スペイン王)祖父:
フェリペ3世 (スペイン王)曽祖父:
フェリペ2世 (スペイン王)
曽祖母:
アナ・デ・アウストリア[1]
祖母:
マルガレーテ (オーストリア大公女)曽祖父:
カール2世 (オーストリア大公)
曽祖母:
マリア・アンナ(バイエルン公女)[2]
母:
イサベル[3]祖父:
アンリ4世 (フランス王)曽祖父:
アントワーヌ (ヴァンドーム公)
曽祖母:
ジャンヌ・ダルブレ (ナバラ女王)
祖母:
マリー・ド・メディシス曽祖父:
フランチェスコ1世 (トスカーナ大公)
曽祖母:
ジョヴァンナ (オーストリア大公女)[4]

系譜の中に、複数の叔姪婚が含まれている(赤字が姪)。
マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)と、フェリペ2世の妹マリアの子であり、叔父と姪の結婚である。

カール2世妃マリア・アンナは、バイエルン公アルブレヒト5世と、カール2世の姉アンナの間の娘であり、叔父と姪の結婚である。

兄にルイ13世 (フランス王)、妹にチャールズ1世 (イングランド王)アンリエット・マリーがいる。

フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)の娘で、フェリペ2世の従妹にあたる。

脚注[脚注の使い方]^ “Marie-Therese of Austria : queen of France”. Encyclopedia Britannica. 2023年1月28日閲覧。
^ Madurese de motet Fille du roi soleill

参考文献
関連項目

ピレネー条約

ココア

マリー・テレーズ・ドートリッシュ スペイン・ハプスブルク家

1638年9月10日 -1683年7月30日
フランスの君主
先代
アンヌ・ドートリッシュフランス・ナヴァール王妃(英語版)
1660年6月9日 ? 1683年7月30日次代
マリー・レクザンスカ










フランス后妃
カペー朝

アデライード・ダキテーヌ

ロザーラ・ディタリー

ベルト・ド・ブルゴーニュ

コンスタンス・ダルル

マティルド・ド・フリーズ

アンヌ・ド・キエヴ

ベルト・ド・オランド

ベルトラード・ド・モンフォール

リュシエンヌ・ド・ロシュフォール

アデル・ド・サヴォワ

アリエノール・ダキテーヌ

コンスタンス・ド・カスティーユ

アデル・ド・シャンパーニュ

イザベル・ド・エノー

イザンブール

アニェス・ド・メラニー

ブランシュ・ド・カスティーユ

マルグリット・ド・プロヴァンス

イザベル・ダラゴン

マリー・ド・ブラバン

ジャンヌ・ド・ナヴァール

ヴァロワ朝

ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ

ブランシュ・デヴルー

ジャンヌ・ドーヴェルニュ

ジャンヌ・ド・ブルボン

イザボー・ド・バヴィエール

マリー・ダンジュー


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