マリー・サレ
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彼女は通常の大きく膨らんだスカートなどの旧態依然とした重い衣装ではなく、モスリン製のシンプルなチュニックとサンダル姿で舞台に立ち、その踊りの表現力だけではなく、衣装でも観客に新鮮な驚きと感動を与えることになった[2][3]

サレと親しく交流した人物の中で、特に知られているのはバロック期を代表する作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルである。ヘンデルとサレの出会いは1717年に遡る。オペラリナルド』のロンドン公演にダンサーとして出演していた少女時代のサレに彼は惹きつけられたが、彼女が活動の場をパリに移したために、長きにわたって交流が途絶えていた[7]。時は流れ、ロンドンでサレとともに仕事をする機会を得たヘンデルは、オペラ『忠実な羊飼い(英語版)』(Il pastor fido)を改作して、1734年にバレエ曲『テルプシコーレ』を追加作曲した[7]。この作品はサレとヘンデルの双方にとって申し分ない出来栄えのものとなり、大成功を収めた。ヘンデルはさらに『アリオダンテ』(Ariodante)、『アルチーナ』(Alcina) などにサレのためのディヴェルティスマンを追加した[2][7][8]。サレは『アルチーナ』の一場面でキューピッド役を演じるために男装して舞台に現れたが、これは不評だったため、以後ロンドンの舞台に立つことはなかった[2]

パリでは舞台出演を続け、モリエールが台本を書き、ジャン=バティスト・リュリが作曲を手掛けた一連の「コメディ=バレ」(舞踊喜劇)で好評を博した[2]ジャン=フィリップ・ラモーとも一緒に仕事をし、『優雅なインドの国々』(Les Indes galantes、1735年)や『カストールとポリュックス(英語版)』(Castor et Pollux、1737年)など彼が作曲したオペラの舞踊場面に登場した[2][9][10]。サレはラモーの作品中で自ら振り付けた場面も踊ったが、彼女の振付はパリの観客にそれほど好評ではなく、1740年に一度舞台から退き、5年間隠棲したのちにダンサーとして復帰した。最後に舞台に立ったのは、1753年フォンテーヌブローでのことだった。その3年後、1756年に死去した[2]

サレはヘンデル以外にも、当時の芸術家や詩人などに多くのインスピレーションを与えた。画家のモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールニコラ・ランクレ は彼女を題材にした肖像画を描き、アレキサンダー・ポープジョン・ゲイ、そしてヴォルテールなどは詩を書いた[2]。18世紀後半にノヴェールの目指したバレエ改革はサレの存在に触発された部分があり、彼はサレの気取りのない優雅さと表現力を称えた文章を残している[2]
脚注^ a bバレエな歴史 2011年7月16日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o 『オックスフォード バレエダンス事典』196頁。
^ a b c d e f 『バレエ音楽百科』136頁。
^ 『オックスフォード バレエダンス事典』470頁。
^ サレと人気を二分したマリー・カマルゴも、プレヴォーの弟子であった。
^ バレエのの一種で、跳躍しながら空中で両足を素早く交差させる動き。
^ a b c 『バレエ音楽百科』342頁。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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