マリリン・モンロー
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1959年『お熱いのがお好き』でゴールデングローブ賞ミュージカル・コメディ映画部門主演女優賞を受賞した。

その華やかな私生活はメディアで大きな注目を集めた。野球の元スター選手ジョー・ディマジオ、劇作家のアーサー・ミラーと結婚しているが、いずれも離婚している。一方で、彼女は薬物乱用うつ病不安障害に悩まされていた。

1962年8月4日、ロサンゼルスの自宅でバルビタールの過剰服用により36歳で死去(謀殺説については#死をめぐる諸説節を参照)。1961年の映画『荒馬と女』が遺作となった。
経歴
生い立ち幼少期のモンロー(1927年ごろ)

モンローは、1926年6月1日、カリフォルニア州ロサンゼルスのロサンゼルス郡病院(英語版)でノーマ・ジーン・モーテンソン (Norma Jeane Mortenson) として生まれた[8]。母親はグラディス・パール・ベイカー(旧姓モンロー)。父親は当時の夫マーティン・エドワード・モーテンセンとされていたが[注釈 3]、実の父親については議論があり[10][注釈 4]、2022年に行われたDNA鑑定の結果、母親の勤め先の同僚チャールズ・スタンレー・ギフォードが実父と判明した[13]

母グラディスには離婚歴があり、先夫との間に兄ロバート (1918 - 1933) と姉バーニース(英語版)(1919 - 2014) がいた[14]。モンローは、12歳になるまで兄姉の存在を知らされず、初めて姉と対面したのは成年後(17か18歳)だった[15]

両親は1928年に離婚した[16][17]。 グラディスは精神的にも経済的にも不安定だったが、モンローは幸せな幼少期を過ごした[18]。グラディスはノーマをホーソーンのボレンダー家に預け、仕事のためにロサンゼルスに戻るまでの半年間は一緒に暮らし[19]、その後は毎週末に娘を訪ねてきた[18]。 1933年夏、グラディスはローンでハリウッドに小さな家を購入し、7歳のノーマと一緒に暮らし始めた[20]。親子の住む家には俳優のアトキンソン夫妻と娘のネリーが間借していた[20]

1934年1月、グラディスは精神を病み、妄想型統合失調症と診断された[21]。 療養所で数ヶ月を過ごした後、彼女はメトロポリタン州立病院に入院した[21]。以後、彼女は残りの人生を入退院を繰り返しながら過ごし、ノーマとは滅多に会わなかった[22]。ノーマは州の保護下に入り、母親の友人グレース・ゴダードがノーマ母娘の身辺を管理することになった[23]

その後の4年間、ノーマの生活状況は目まぐるしく変化した。最初の16ヶ月、彼女はアトキンソン一家との同居を続けたが、この間に性的虐待を受けた可能性がある[24][注釈 5]。 元々内気な性格だったが、吃音も発症し引きこもりがちになった[28]。1935年の夏、ノーマはグレースと彼女の夫アーウィン・ドク・ゴダードの家に引き取られ、彼らと他に2つの家族と一時的に同居した[29]。同年9月、グレースはノーマをロサンゼルスの孤児院に預けた[30]。この孤児院は「模範的な施設」で、周りの人間からも好意的に受け入れられたが、ノーマは自分が見捨てられたと感じていた[31]

ノーマは家族と一緒に暮らす方が幸せだと考えた孤児院のスタッフに勧められ、グレースは1936年にノーマの法定後見人になったが、1937年の夏までノーマを孤児院から引き取らなかった[32]


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