マラリア
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米軍も大戦中に多くの戦争マラリア罹患者を出し、罹患者は50万人にも及び[37]、アフリカや太平洋での作戦中に6万人の米兵がマラリアのために死亡した[38]

この経験から米軍は1946年に蚊の忌避剤としてディートを使用し、後の民生用虫除け剤の開発の契機となったが、ベトナム戦争でも多くのマラリア罹患者が出た。
日本におけるマラリア

日本では、1903年時に全国で年間20万人のマラリア患者があったが、1920年には9万人、1935年には5,000人へと激減し、戦中・戦後の混乱期にもかかわらず減少を続け、1959年滋賀県彦根市の事例を最後に土着マラリア患者が消滅している[30][39]、沖縄県では米軍統治下の1962年に消滅した。

日本の古文献では、しばしば瘧(おこり)・瘧病(おこりやまい/ぎゃくびょう)と称される疫病が登場するが、今日におけるマラリアであると考えられている。養老律令医疾令では、典薬寮に瘧の薬を備えておく規定がある[40]。『和名類聚抄』には別名として「和良波夜美(わらわやみ)」「衣夜美(えやみ)」が記載されている(アーサー・ウェイリー訳ではague「マラリア」と訳してある)。前者は童(子供)の病気、後者は疫病の意味であると考えられている。『源氏物語』の「若紫」の巻では光源氏が瘧を病んで加持(かじ)のために北山を訪れ、通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺(23歳)の面影を持つ少女(後の紫の上)を垣間見る設定になっている。『御堂関白記』『日本紀略』には東宮敦良親王寛仁2年(1018年)8月に瘧病を病んだとの記述があり、天台座主慶円加持を受けたことが分かる[41]。中世日本においてマラリアはありふれた病気であり、九条兼実藤原定家夢窓疎石といった人物が発病している他、『言継卿記』には作者山科言継の妻、南向が病んだ「わらはやみ」について詳しい記録がある[42]。近代以前には西日本の低湿地帯において流行がみられた。歌舞伎の『助六由縁江戸』の口上は「いかさまナァ、この五丁町へ脛を踏ん込む野郎めらは、おれが名を聞いておけ。まず第一、瘧が落ちる(熱病が治る)…」である。江戸時代川柳の題材としてもしばしば用いられていた[43]。20世紀に沈静化した[30]
北海道

北海道ではほぼ全域で流行し、明治時代以降の北海道開拓に支障を来していた。例えば、1907年(明治40年)3月に着工された網走線鉄道工事の陸別・置戸間(当時、密林地帯で入植者はなかった)では、マラリア、皮膚病などに悩まされ、網走線請負人が共同で普通病院を設置しなければならなかった。また、深川村(現在の深川市)に駐屯していた屯田兵とその家族にマラリアの流行があり、1900年には1,471名の屯田兵と家族が感染していた(当時の深川村の屯田兵と家族の総数:8,207名。正確な年は不明だが、この頃の深川村の人口:14,073名)。1916年(大正5年)には、北海道全域のマラリア患者数は、2,003名であった(マラリアによる死亡者なし。当時の北海道の人口:1,408,362名)。北海道で流行したマラリアは、三日熱マラリアであり、その大多数は土着マラリアであると思われるが、撲滅された。ただし、今の北海道にも、かつて、日本で熱帯熱マラリアおよび三日熱マラリアを流行させたと推察されているオオツルハマダラカ(Anopheles lesteri)、あるいは、シナハマダラカ(Anopheles sinensis)などのハマダラカは生息している[44][45]
本州
琵琶湖周辺を中心として、滋賀県福井県石川県愛知県富山県の五県は本州でマラリア患者が最後まで残った地域であった[46]。福井県では大正時代は毎年9,000 - 22,000名以上のマラリア患者が発生しており、1930年代でも5,000から9,000名の患者が報告されていた。本州で流行したマラリアは三日熱マラリアであり、その大多数は土着マラリアであると思われる。
沖縄
特に八重山諸島にはマラリア感染地域があることが知られ、琉球王朝の時代から強制移民と廃村が繰り返された歴史がある。また、第二次世界大戦中には戦争マラリアと呼ばれる大量感染の記録がある。これらも米軍政府と普天間基地を拠点とした米軍防疫部隊の尽力で1960年代前半に根絶された。ただし、今の石垣市や西表島東部、小浜にも、コガタハマダラカが高密度に生息している。なお、この地方のマラリアについては真の土着ではなく、より古い時代にオランダ船によりもたらされたとの説がある。
戦後マラリア

一般的に、マラリアは戦争時・戦後直後に大流行する傾向がある。実際、第一次世界大戦初期には欧州本土の軍隊間に甚だしいマラリアの流行はなかったが、末期近くになるにつれて漸次蔓延し、戦後には復員と共に従来マラリアをみなかった地方にまでにも及ぶようになり、一時的ではあったが遂には大流行となった。例えば、第一次世界大戦後のチェコスロバキアで熱帯熱マラリアの流行がみられた。

第二次世界大戦後、いわゆる内地(当時米国領の沖縄奄美小笠原以外)に帰還した旧日本兵や引揚者で、マラリアが再発したのは、約43万人と推定されている。これらの者が感染源となって、マラリアが内地で土着蔓延するのではないかと憂慮されていた。三日熱マラリアは、1946年1947年に、それぞれ約7,000人の内地初感染があったと推定されている。熱帯熱マラリアは、1946年に、長崎県(36人)、熊本県(1人)、鹿児島県(2人)、岡山県(1人)、愛知県(1人)、大阪府(1人)で、1946年 - 1947年に北海道留辺蘂町(7人)で、1949年に、福岡県(1人)で、内地初感染(流行)があった。以上の流行は、大体、1 - 2年以内に終息し、土着蔓延しなかった。四日熱マラリアは、内地初感染は全くなかった。
現在の日本で土着マラリアが流行していない理由

日本では、1903年時に全国で年間20万人あったマラリア患者が、1920年には9万人、1935年には5,000人へと激減している。戦後500万人を超える復員者による再流行が懸念されたが、戦中・戦後の混乱期にもかかわらず減少を続け、1959年彦根市の事例を最後に土着マラリア患者は根絶され、沖縄の戦争マラリアも1962年に根絶されている[30]。現在では外国でマラリアに感染し、日本に帰国してから発症する例が年間100 - 150例程度あるものの、土着マラリアは流行していない。

土着マラリア患者が大正時代頃から戦後直後にかけて減少・消滅した原因は治療薬キニーネの治療効果、蚊帳蚊取線香の使用などで生活環境の改善、湿地の土地改良や殺虫剤DDT散布によるマラリア媒介蚊ハマダラカの減少などにあるとされる[30]。また日本の住宅構造や行動様式の変化[47]により夜間に活動するハマダラカの吸血頻度が低下したことなどがあげられる。しかし、これらの状況が温暖化や自然災害などにより変化した場合は再び流行を起こす可能性もあると指摘されている[48]
特殊な疾患との関連性
鎌状赤血球症

鎌状赤血球症は、遺伝性の貧血病で、赤血球の形状が鎌状になり酸素運搬機能が低下して起こる貧血症である。主にアフリカ地中海沿岸、中近東インド北部で見られる。

11番染色体にあるヘモグロビンβ鎖の第6番目のアミノ酸が変わる(グルタミン酸バリンに)遺伝子突然変異が原因であり、常染色体劣性遺伝をする。遺伝子型ホモ接合型の場合、常時発症しているのでたいていは成人前に死亡するが、遺伝子型がヘテロ接合型の場合、低酸素状態でのみ発症するので通常の日常生活は営める。


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