マラリア
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世界保健機関(WHO)により2021年に清浄国と認定された[32]
オランダ

オランダ低湿地地帯は19世紀のヨーロッパで最もマラリアが蔓延している地帯として知られていた。ナポレオン戦争期のイギリスによるワルヘレン上陸作戦では8,000名が罹患したことがクラウゼヴィッツ戦争論』に記されている。
スウェーデン

スウェーデンでは1880年頃まで毎年4,000 - 8,000人のマラリア患者が出ていた。その大多数は、土着マラリアと思われるが、現在では、撲滅された。
アフリカ
モザンビーク

2017年、モザンビークではマラリアの流行が深刻化した。2017年1月から3月の間に148万人がマラリアと診断され、288人が死亡している[33]
ヴィクトリア湖

2008年3月、ケニアウガンダタンザニアにまたがるアフリカ大陸最大の湖ヴィクトリア湖は年々水位が下がっており、係留していたと思われるボートが陸に上がってしまったり、湖岸であった箇所には幅10メートルないし20メートルの草地が続いていたりすると報道された[34]NASAなどの人工衛星観測データでは、ヴィクトリア湖の水位がピークの1998年にくらべ1.5メートルも低下しており、1990年代の平均と比べても約50センチメートル低くなっている[34]。原因としては、降雨量の減少と下流にあるダムへの過剰な流出が考えられている[34]。干上がりかけた水たまりにハマダラカのボウフラ(カの幼虫)が泳ぐなど蚊の繁殖に好適な水域が広がり、従来はマラリアが非流行地だったケニア西部の高地にも多発する傾向が顕著となっている[34]
歴史詳細は「マラリアの歴史」を参照
ノーベル賞

マラリアに関する研究に対して与えられたノーベル生理学・医学賞は4件ある。
1902年、イギリスの内科医ロナルド・ロスに、マラリア原虫がハマダラカによって媒介されることの発見に対して与えられた。

1907年、フランスの病理学者シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴランに、原虫による疾病の研究に対して与えられた。これは1880年のマラリア原虫の発見と、その後のリーシュマニアおよびトリパノソーマの研究を指す。

1927年、ウィーンの医師ユリウス・ワーグナー=ヤウレックに、麻痺性痴呆のマラリア療法の発明に対して与えられた。麻痺性痴呆は梅毒の末期症状であるが、梅毒の病原体である梅毒トレポネーマは高熱に弱いため、患者を意図的にマラリアに感染させて高熱を出させ、体内の梅毒トレポネーマの死滅を確認した後キニーネを投与してマラリア原虫を死滅させるという治療法である。当時梅毒の治療法としては他にサルバルサン投与による方法があったが、麻痺性痴呆には効果がなかったため画期的な治療法だった。ただし、この療法は危険度が大きいため抗生物質が普及した現在では行なわれていない。

2015年、中国の屠??に与えられた。1960年代から1970年代にかけ、屠によるチームが漢方薬クソニンジンからアルテミシニンを開発したことによる[35]

戦争マラリア詳細は「戦争マラリア」を参照

大東亜戦争太平洋戦争)では南方のジャングルに長期滞在する兵士が多かったため、マラリア患者が続出した。日本軍は治療薬キニーネの支給を行っていたものの、ガダルカナル島の戦いでは1万5000人、インパール作戦では4万人、沖縄戦では石垣島の住民ほぼ全員が罹患して[36]3,600人、ルソン島の戦いでは5万人以上がマラリアによって死亡した。

米軍も大戦中に多くの戦争マラリア罹患者を出し、罹患者は50万人にも及び[37]、アフリカや太平洋での作戦中に6万人の米兵がマラリアのために死亡した[38]

この経験から米軍は1946年に蚊の忌避剤としてディートを使用し、後の民生用虫除け剤の開発の契機となったが、ベトナム戦争でも多くのマラリア罹患者が出た。
日本におけるマラリア

日本では、1903年時に全国で年間20万人のマラリア患者があったが、1920年には9万人、1935年には5,000人へと激減し、戦中・戦後の混乱期にもかかわらず減少を続け、1959年滋賀県彦根市の事例を最後に土着マラリア患者が消滅している[30][39]、沖縄県では米軍統治下の1962年に消滅した。

日本の古文献では、しばしば瘧(おこり)・瘧病(おこりやまい/ぎゃくびょう)と称される疫病が登場するが、今日におけるマラリアであると考えられている。養老律令医疾令では、典薬寮に瘧の薬を備えておく規定がある[40]。『和名類聚抄』には別名として「和良波夜美(わらわやみ)」「衣夜美(えやみ)」が記載されている(アーサー・ウェイリー訳ではague「マラリア」と訳してある)。前者は童(子供)の病気、後者は疫病の意味であると考えられている。『源氏物語』の「若紫」の巻では光源氏が瘧を病んで加持(かじ)のために北山を訪れ、通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺(23歳)の面影を持つ少女(後の紫の上)を垣間見る設定になっている。『御堂関白記』『日本紀略』には東宮敦良親王寛仁2年(1018年)8月に瘧病を病んだとの記述があり、天台座主慶円加持を受けたことが分かる[41]。中世日本においてマラリアはありふれた病気であり、九条兼実藤原定家夢窓疎石といった人物が発病している他、『言継卿記』には作者山科言継の妻、南向が病んだ「わらはやみ」について詳しい記録がある[42]。近代以前には西日本の低湿地帯において流行がみられた。歌舞伎の『助六由縁江戸』の口上は「いかさまナァ、この五丁町へ脛を踏ん込む野郎めらは、おれが名を聞いておけ。まず第一、瘧が落ちる(熱病が治る)…」である。江戸時代川柳の題材としてもしばしば用いられていた[43]。20世紀に沈静化した[30]
北海道

北海道ではほぼ全域で流行し、明治時代以降の北海道開拓に支障を来していた。例えば、1907年(明治40年)3月に着工された網走線鉄道工事の陸別・置戸間(当時、密林地帯で入植者はなかった)では、マラリア、皮膚病などに悩まされ、網走線請負人が共同で普通病院を設置しなければならなかった。また、深川村(現在の深川市)に駐屯していた屯田兵とその家族にマラリアの流行があり、1900年には1,471名の屯田兵と家族が感染していた(当時の深川村の屯田兵と家族の総数:8,207名。正確な年は不明だが、この頃の深川村の人口:14,073名)。1916年(大正5年)には、北海道全域のマラリア患者数は、2,003名であった(マラリアによる死亡者なし。当時の北海道の人口:1,408,362名)。北海道で流行したマラリアは、三日熱マラリアであり、その大多数は土着マラリアであると思われるが、撲滅された。ただし、今の北海道にも、かつて、日本で熱帯熱マラリアおよび三日熱マラリアを流行させたと推察されているオオツルハマダラカ(Anopheles lesteri)、あるいは、シナハマダラカ(Anopheles sinensis)などのハマダラカは生息している[44][45]


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