マラリア
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過去には、日本やヨーロッパなどでもマラリアが流行した[27]イタリアの都市の多くが、丘の上に作られているのは、低湿地がマラリアの多発地帯である事を恐れた結果であったとする指摘がある。実際、過去にはイタリアでもマラリアが存在し、19世紀の政治家・カミッロ・カヴールといった著名人も死去している。しかし、現代では、日本やヨーロッパなどの温帯地域はマラリアの流行地帯ではなく、流行は熱帯地域に多い。

地球温暖化の影響でハマダラカが越冬できる地域が広がったことにより、感染地域が広がる危険性についても指摘されている。
マラリアを保持しないハマダラカ

ハマダラカは、マラリア原虫を媒介する。しかし、ハマダラカが生息していても、土着マラリアが流行していない地域がある。実際、かつて、土着マラリアが流行した西ヨーロッパアメリカ合衆国カナダ南部、北緯64度以南のロシア日本南樺太には、今でもハマダラカが生息しているが、土着マラリアは流行していない。
現代各国の状況(帰属未確定な地域を含む)マラリアの流行地域   クロロキン耐性・多剤耐性あり   クロロキン耐性あり   熱帯熱マラリアまたはクロロキン耐性なし   存在しない
アメリカ合衆国

1930年代まで年間10万人以上のマラリア患者を出しており、特にミシシッピー北西部の低湿なデルタ地帯で流行していた。特にテネシー川流域では人口の3割がマラリアに感染しており、テネシー川流域開発公社ではマラリアの撲滅が重要な課題となっていた。また、アメリカ疾病管理予防センターはマラリアを撲滅するために作られたプログラム及び組織が前身となっている[28]。現在ではアメリカから土着マラリアは根絶されたが[29]、年間2,000例の輸入マラリアが報告されている。
日本

1903年明治36年)時には全国で年間20万人の土着マラリア患者があったが、その後は急速に減少し、1920年大正9年)には9万人、1935年昭和10年)には5,000人に激減している。第二次世界大戦中・戦後復員者による一時的急増があったが、減少傾向は続き、1959年彦根市の事例を最後に土着マラリア患者は消滅した[30]

しかし現在も海外から帰国した人が感染した例(いわゆる輸入感染症)が年間100例以上ある。また、熱帯熱マラリアが増加傾向にある。現在第4類感染症に指定されており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要がある。詳細は下記を参照のこと。

日本もマラリア対策に協力しており、その一つに伝統的な蚊帳づくりがある。
ロシア

北緯64度以南の地域(北樺太、シベリアを含む)で、三日熱マラリアが流行していた。その大多数は、土着マラリアと思われるが、現在では姿を消している。
南樺太

少なくとも、1922年(大正11年)頃までは三日熱マラリアが流行していた。その大多数は、土着マラリアと思われるが、現在では姿を消している
カナダ

カナダ南部で、マラリアが流行していた。例えば、1820年代のリドー運河建設時には、多数の労働者がマラリアに罹患した。その大多数は、土着マラリアと思われるが、現在では絶滅している。
韓国

大韓民国(韓国)では一時期根絶に成功したと考えられていたが、1993年に京畿道北部の軍事境界線で三日熱マラリアの感染事例が確認された。北朝鮮側からマラリア感染した蚊が飛来したためと推定されている。当初患者は20 - 25歳の軍人が主だったが、次第に民間人へも広まり、現在では軍人患者とほぼ同数。2007年の全患者数は23,413人にのぼっているという[31]
中華人民共和国

世界保健機関(WHO)により2021年に清浄国と認定された[32]
オランダ

オランダ低湿地地帯は19世紀のヨーロッパで最もマラリアが蔓延している地帯として知られていた。ナポレオン戦争期のイギリスによるワルヘレン上陸作戦では8,000名が罹患したことがクラウゼヴィッツ戦争論』に記されている。
スウェーデン

スウェーデンでは1880年頃まで毎年4,000 - 8,000人のマラリア患者が出ていた。その大多数は、土着マラリアと思われるが、現在では、撲滅された。
アフリカ
モザンビーク

2017年、モザンビークではマラリアの流行が深刻化した。2017年1月から3月の間に148万人がマラリアと診断され、288人が死亡している[33]
ヴィクトリア湖

2008年3月、ケニアウガンダタンザニアにまたがるアフリカ大陸最大の湖ヴィクトリア湖は年々水位が下がっており、係留していたと思われるボートが陸に上がってしまったり、湖岸であった箇所には幅10メートルないし20メートルの草地が続いていたりすると報道された[34]NASAなどの人工衛星観測データでは、ヴィクトリア湖の水位がピークの1998年にくらべ1.5メートルも低下しており、1990年代の平均と比べても約50センチメートル低くなっている[34]。原因としては、降雨量の減少と下流にあるダムへの過剰な流出が考えられている[34]。干上がりかけた水たまりにハマダラカのボウフラ(カの幼虫)が泳ぐなど蚊の繁殖に好適な水域が広がり、従来はマラリアが非流行地だったケニア西部の高地にも多発する傾向が顕著となっている[34]
歴史詳細は「マラリアの歴史」を参照
ノーベル賞

マラリアに関する研究に対して与えられたノーベル生理学・医学賞は4件ある。
1902年、イギリスの内科医ロナルド・ロスに、マラリア原虫がハマダラカによって媒介されることの発見に対して与えられた。

1907年、フランスの病理学者シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴランに、原虫による疾病の研究に対して与えられた。これは1880年のマラリア原虫の発見と、その後のリーシュマニアおよびトリパノソーマの研究を指す。

1927年、ウィーンの医師ユリウス・ワーグナー=ヤウレックに、麻痺性痴呆のマラリア療法の発明に対して与えられた。麻痺性痴呆は梅毒の末期症状であるが、梅毒の病原体である梅毒トレポネーマは高熱に弱いため、患者を意図的にマラリアに感染させて高熱を出させ、体内の梅毒トレポネーマの死滅を確認した後キニーネを投与してマラリア原虫を死滅させるという治療法である。当時梅毒の治療法としては他にサルバルサン投与による方法があったが、麻痺性痴呆には効果がなかったため画期的な治療法だった。ただし、この療法は危険度が大きいため抗生物質が普及した現在では行なわれていない。

2015年、中国の屠??に与えられた。1960年代から1970年代にかけ、屠によるチームが漢方薬クソニンジンからアルテミシニンを開発したことによる[35]

戦争マラリア詳細は「戦争マラリア」を参照

大東亜戦争太平洋戦争)では南方のジャングルに長期滞在する兵士が多かったため、マラリア患者が続出した。日本軍は治療薬キニーネの支給を行っていたものの、ガダルカナル島の戦いでは1万5000人、インパール作戦では4万人、沖縄戦では石垣島の住民ほぼ全員が罹患して[36]3,600人、ルソン島の戦いでは5万人以上がマラリアによって死亡した。


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