マヤ文明においては各都市は頻繁に戦争を行っており、これによって勢力圏は大きく変動した。マヤの戦争においては敵の王や貴族などを生け捕りにすることが非常に重要であり、王が捕らえられた都市は威信を大きく落として衰退の道をたどるものが多かった。捕らえられた王や貴族は公衆の前で侮辱され、虐待された後に首をはねられたり、生贄として殺害された。しかし、生きのびて勝者の臣下となり、帰国して復位することもあった[12]。 マヤ文明はほかのすべての新大陸文明と同様、鉄器を持たず、石器が広く使用されていた。金や銀、銅などの金属使用は9世紀ごろから存在する[13]が、銅器も装飾品としての利用に限られており、基本的には金石併用 マヤ文明には牛や馬のような輸送用の家畜が存在せず、物資の運搬は主に人力によった。例外として河川流域においてはカヌーによる輸送が行われ、また後古典期に入ると海上輸送が成長してトゥルムなどの海港都市も発達するようになったが、海や河川の存在しないマヤ低地の大部分においては最後まで輸送は人力を主としていた[16]。この輸送力不足を補うため、各都市の中心から周辺地域にはサクベと呼ばれる、漆喰や小石による舗装道路が張り巡らされていた[17]。車輪付きの土偶が出土するなど車輪の原理は知られていたが、輸送などに実用化されることはなかった[16]。 農業技術については、地域の特性に合わせた様々な耕作方法が利用された。マヤ文明には他文明のような大河が存在しなかったものの、小規模な河川が流れる地域においてはその水を利用した灌漑農耕がおこなわれた。マヤ低地には河川がほとんど存在しないものの、地盤が石灰岩でできているこれら地方においてはセノーテとよばれる天然の泉が点在しており、その水を利用して農耕を行っていた。山地においては段々畑を作って作物を植え、湿地では、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分に農作物を植えた。定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。また、焼畑(ミルパ)農法もおこなわれた。 家畜として存在したのはイヌだけだった。ほか野生のシチメンチョウ、ハチ、シカ、パカ、ペッカリー、その他の野鳥や魚が食用とされた[18]。 マヤ文明の主食はトウモロコシであり、マヤ地域どの都市においても経済の根幹をなすもので、例外なく広く栽培された。トウモロコシはアトレというトウモロコシ粥やタマルと呼ばれる蒸し団子として主に食された。トルティーヤもマヤ高地においては先古典期より食べられていたが、マヤ低地においてはアトレやタマルが主であり、トルティーヤが食べられるようになるのは後古典期に入ってからだった[19]。このほか、各種の豆やカボチャも重要な作物であり、広く栽培された。マヤ文明においてはラモンの木の実が主食となっていたという説が唱えられたこともあったが、当時の地層(日本考古学用語では「土層」)からほとんど出土しないために食糧としてはそれほど使用されていなかったと考えられている[20]。香辛料としてはトウガラシが重要だった。マゲイ(リュウゼツラン)の蜜水からつくられるプルケや、蜂蜜からつくられるバルチェ酒という蜂蜜酒は儀礼に用いられた。タバコも重要な儀礼用作物であった。7世紀ごろのパレンケにおいてはすでに神がたばこをくゆらすレリーフが発見されており、このころにはすでに喫煙の習慣がはじまっていたことを示している[21]。 カカオは飲料の材料として珍重されており、文明末期には通貨としても使用されていた[22]。カカオは高温多湿のマヤ低地南部における主要交易品ともなっていた。蜂蜜も低地東部において生産され、貴重な甘味として交易品の一つとなっていた。家畜も存在せずなおかつ飼う習慣もなかったために乳製品の飲食文化は全く存在せず、また動物性食品は食したものの都市周辺の開発の進化によって狩猟対象となる野生動物が激減したため肉の消費は少なく、植物性食品が食生活の中心となっていた。衣料原料としては綿花がマヤ地域の全域で栽培された。 マヤにおいて交易は重要であり、北部の塩や中部のカカオ、南部のヒスイや黒曜石などが盛んに交易された。この交易網はマヤ都市間のみにとどまらず、メキシコ高原や中央アメリカといった近隣地域、さらにはアメリカ西部で産出されるトルコ石がマヤ遺跡から出土していることから、近隣文明も含めた大規模な交易網が確認できる。
道具
交通
産業
食生活
交易
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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