標式遺跡は、グアテマラ、ペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。下記のような先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。
先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期)
他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。
マヤ系諸王国「en:Kuchkabal」も参照ユカタン半島のマヤ系諸王国ペテン盆地及びグアテマラ低地のマヤ系諸王国
宣教師らの記録から、16世紀には以下のようなマヤ系諸政体ないし王国があったと考えられている。
ユカタン半島
Ah Canul (アフ・カヌル)
Ah Kin Chel
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出典検索?: "マヤ文明"
マヤ文明が政治的に統一されたことは歴史上一度もなく、各地に無数の小都市が分立する政治体制が作られていた。ただし各都市間に上下がないわけではなく、有力都市が周辺の小都市を従属させて優越王となり、いくつかの大都市の勢力圏に文明圏全域が分割された時期と、小都市国家が並立する時期が存在した[10]。
マヤの王はなかば超自然的な存在とされており、トウモロコシ神と同一視されていた。トウモロコシが地面に植えられて再生するように、死んだ王も復活すると考えられた[11]。王位継承は厳密に父系により、長男に優先順位があった。そうしないと王統が絶える場合にのみ女性が即位した[11]。ただし、古典期後期にはナランホの「6の空」(ワク・チャニル・アハウ)女王やエル・ペルーのカベル女王のように実質的な支配者として君臨した例が見られる。
マヤ文明においては各都市は頻繁に戦争を行っており、これによって勢力圏は大きく変動した。マヤの戦争においては敵の王や貴族などを生け捕りにすることが非常に重要であり、王が捕らえられた都市は威信を大きく落として衰退の道をたどるものが多かった。捕らえられた王や貴族は公衆の前で侮辱され、虐待された後に首をはねられたり、生贄として殺害された。しかし、生きのびて勝者の臣下となり、帰国して復位することもあった[12]。 マヤ文明はほかのすべての新大陸文明と同様、鉄器を持たず、石器が広く使用されていた。金や銀、銅などの金属使用は9世紀ごろから存在する[13]が、銅器も装飾品としての利用に限られており、基本的には金石併用
道具