マヤ文明
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スペインによる植民地化と終焉詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「ユカタン半島の征服(スペイン語版、英語版)」を参照「グアテマラの征服(スペイン語版、英語版)」および「ペテン盆地の征服(スペイン語版、英語版)」も参照

1492年クリストファー・コロンブスがアメリカ地域に到達したときは、いまだマヤ地域にまでは到達していなかった。ヨーロッパ人がはじめてマヤに姿を現すのは、1517年フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバの遠征によってである。この時の遠征は失敗に終わったが、翌1518年にはフアン・デ・グリハルバトゥルムに到達し、文明の高さに驚嘆している[7]。その後スペイン人による本格的な侵略がはじまり、1524年にはペドロ・デ・アルバラードによってマヤ高地のキチェ人が征服され、この地方はグアテマラとしてスペインの支配下に入った。ユカタン半島北部もまた、フランシスコ・デ・モンテーホによって1527年に侵略が開始されたが、各都市の強い抵抗にあって2度撤退し、1540年にユカタン西岸にカンペチェ1542年に半島北部にメリダの街を建設して足がかりとし、1546年にこの地方を制圧した[8]

これらコンキスタドールの活動によってマヤ文明の北部と南部はスペインの支配下に入った。だがその一方で密林の広がるマヤ低地南部をはじめとする内陸部の征服は遅れ、同地のマヤの諸王国は暫くの間存続した。しかしこれら諸国も徐々に征服されてゆき、1697年には最後のマヤの王国であるタヤサルが滅亡。

これによってマヤ圏全域がスペインに併合され、マヤ文明は完全に滅亡した[9]
マヤ文明の標式遺跡

標式遺跡は、グアテマラペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。下記のような先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。

先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期)

他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。
マヤ系諸王国「en:Kuchkabal」も参照ユカタン半島のマヤ系諸王国ペテン盆地及びグアテマラ低地のマヤ系諸王国

宣教師らの記録から、16世紀には以下のようなマヤ系諸政体ないし王国があったと考えられている。
ユカタン半島

Ah Canul
(アフ・カヌル)

Ah Kin Chel (アフ・キン・チェル)

Can Pech (カン・ペチュ)

Canek (カネク)

Ceh Pech (ケフ・ペチュ)

Chakan (チャカン)

Chakan Putum (チャカン・プトゥム)

Cheles (チェレス)

Chetumal (チェトゥマル

Chikinchel (チキンチェル)

Cochuah (コチュアフ)

Cocom (ココム)

Cupul (クプル)

Ekab (エカブ)

Hocaba-Homun (ホカバ・ホムン)

Putun (プトゥン)

Sotuta (ソトゥタ)

Tases (タセス)

Tutul-Xiu (トゥトゥル・シウ)

Uaymil (ワイミル)

ペテン盆地

Kejache
(ケハチェ)

Ko'woj (コウォフ)

Yalain (ヤライン)

高地マヤ

カクチケル王国
(Reino Kakchiquel)

キチェ王国(スペイン語版、英語版)

文化.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "マヤ文明" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年1月)
チチェン・イッツア遺跡から出土したチャック・モール石像。トルテカの強い影響を受けている
政治

マヤ文明が政治的に統一されたことは歴史上一度もなく、各地に無数の小都市が分立する政治体制が作られていた。ただし各都市間に上下がないわけではなく、有力都市が周辺の小都市を従属させて優越王となり、いくつかの大都市の勢力圏に文明圏全域が分割された時期と、小都市国家が並立する時期が存在した[10]

マヤの王はなかば超自然的な存在とされており、トウモロコシ神と同一視されていた。トウモロコシが地面に植えられて再生するように、死んだ王も復活すると考えられた[11]。王位継承は厳密に父系により、長男に優先順位があった。そうしないと王統が絶える場合にのみ女性が即位した[11]。ただし、古典期後期にはナランホの「6の空」(ワク・チャニル・アハウ)女王やエル・ペルーのカベル女王のように実質的な支配者として君臨した例が見られる。

マヤ文明においては各都市は頻繁に戦争を行っており、これによって勢力圏は大きく変動した。マヤの戦争においては敵の王や貴族などを生け捕りにすることが非常に重要であり、王が捕らえられた都市は威信を大きく落として衰退の道をたどるものが多かった。捕らえられた王や貴族は公衆の前で侮辱され、虐待された後に首をはねられたり、生贄として殺害された。しかし、生きのびて勝者の臣下となり、帰国して復位することもあった[12]
道具

マヤ文明はほかのすべての新大陸文明と同様、鉄器を持たず、石器が広く使用されていた。などの金属使用は9世紀ごろから存在する[13]が、銅器装飾品としての利用に限られており、基本的には金石併用時代であったといえる。刃物には打製石器が用いられ、材料としては黒曜石チャートが主なものであったが、もろいものの切れ味の鋭い黒曜石製の石器の方が価値が高かった。しかし黒曜石はユカタン半島においては産出せず、文明圏南部のマヤ高地にのみ産出したため、重要な交易品の一つとなっており、現在のグアテマラ市に位置するカミナルフユやホンジュラス北部に位置するコパンのように、黒曜石の交易を握ることで大都市に発展したところも存在した。装飾品としては貴金属も存在したが、なによりもヒスイが珍重された[14]。また、ケツァールと呼ばれる鳥の尾羽も威信材として珍重された[15]
交通

マヤ文明にはのような輸送用の家畜が存在せず、物資の運搬は主に人力によった。例外として河川流域においてはカヌーによる輸送が行われ、また後古典期に入ると海上輸送が成長してトゥルムなどの海港都市も発達するようになったが、海や河川の存在しないマヤ低地の大部分においては最後まで輸送は人力を主としていた[16]


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