例外として金融機関が焦点化したのは、中東のオイルマネーが支配するカプコン(Capcom)とイギリスのBCCI(国際商業信用銀行)が麻薬マネーを資金洗浄した容疑である[17][21][22]。証券化の急進地であるシカゴと、ビッグバンを推進するシティ・オブ・ロンドンの不名誉な接点が浮き出た。BCCIは1990年に1130万ポンドの制裁を受けたが、BCCIに対する調査は翌1991年になってイングランド銀行の命令でプライスウォーターハウスが行い、数年間にわたる広範な金融犯罪の証拠を報告した[23]。BCCIは、1991年に倒産したが、BCCIが行った200億ドルにのぼる資金洗浄の総額は、2018年にダンスケ銀行の2000億ユーロに及ぶ資金洗浄疑惑が浮上するまで最高額となっていた[24]。
1990年代には資金洗浄の実行者と金融機関の関係が不可分とみられるような事件が起きた。まず、リッグス銀行(旧第二合衆国銀行)はチリのアウグスト・ピノチェトを得意先としていたが、その関係を隠すために不動産取引を利用していたので、銀行秘書法により制裁金を課された[17][25]。2005年1月に同行は1600万ドルを命令されている[26]。スペインでも800万ドルの和解金を払うことになった。バンダル・ビン・スルターンがBAEシステムズから受けた賄賂を同行で資金洗浄したことなども追及された。そして、バンク・オブ・ニューヨークはエドモンド・サフラのリパブリック銀行が違法取引をしている容疑で1999年に捜査をうけ、資金洗浄の痕跡を発見された[注釈 7]。事件は合衆国上院の委員会(Permanent Subcommittee on Investigations)で305ページという分厚い報告書にまとめられた(Correspondent Banking: A Gateway to Money Laundering)[注釈 8]。
1990年代には移民による送金が資金洗浄の手段に使われ、バラカートが規制の果てに営業を停止した[30]。
国際規制年表
1986年10月27日 - アメリカ合衆国連邦法としてマネロン規制法(Money Laundering Control Act)が発効した。それまでは銀行秘書法(Bank Secrecy Act)でしか資金洗浄は規制されていなかった[31]。1960年代から麻薬価格の上昇と機関化現象の進行にともなって、資金洗浄は旨みを増し手口を複雑化させていた。
1988年12月 - 「麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約」(ウィーン条約)(麻薬新条約)採択。
1989年07月 - アルシュ・サミット開催(フランス)。