マニ_(預言者)
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シャープールは、政治的経済的重要性の高いメソポタミアを安定的に統治するために、ゾロアスター教を強制せずセム系住民の信仰をなるべく尊重した。彼はニシビスユダヤ人指導者とも謁見しており、マニ教もメソポタミアにある諸宗教の一つとしてその活動を容認したとみられている[11]
教会の形成

宮廷で職を得たマニは、自らは教会制度の整備や聖典・書簡・ミニアチュールの作成に携わり、宣教は弟子たちに任せた。そしてパティーク(マニの父親?)やアブサクヤーをシリアに、アッダーらをエジプトに、ザクらをパレスチナに、ガブリヤーブをアルメニアに、マール・アンモーを中央アジアに送るなど、サーサーン朝の内外に教線を伸ばした。特にガブリヤーブはシャープールの長男でアルメニア国王ホルミズド・アルダシールに取り入っていた。また、アンモーはパルティア王族アルダヴァーンとともにパルティア地方で現地貴族を対象に宣教活動を行い、一定の成果を得ていた。このことがパルティアを倒して権力を握ったサーサーン朝王宮を刺激し、マニの立場を危うくしたという説がある。しかし、マニ自身は自らの教えが東西にいきわたったことに満足したらしく、精力的に執筆活動に従事した[12]

マニ教の教義にはゾロアスター教神官団にとって不快な内容が多々含まれていた。ゾロアスター教の神話を剽窃して好き勝手に改変し、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)はあっさり悪神アフレマン(アンラ・マンユ)に敗北し、ザラスシュトラは失敗した預言者として扱われていた。しかもマニ教教会は本来ゾロアスター教神官団の名称である「デーンマーズデースン」を自称しており、国内に混乱を巻き起こしたとみられている[13]バハラームに召され、自ら著述した画集教典を王に差し出す「絵師マニ」。16世紀ミール・アリー・シール・ナヴァーイー作、タシュケント(現ウズベキスタン
殉教

272年にシャープールが死去し、長男ホルミズド1世が跡を継いだ。マニはホルミズドに取り入ることに成功したが、彼もまたすぐに死んでしまう。跡を継いだバハラーム1世の時代になると、大マグのカルティール(キルディール)の勢力が拡大し、権力闘争に負けたマニは属国バート王の宮廷に左遷された。マニはめげずにここでも宣教を行い、バート王を改宗させたという。しかしこのことがクテシフォンの逆鱗に触れ、バート王に召喚命令が下った。立場がなくなったマニはサーサーン家で最初の改宗者ミフル・シャーに助けを求めに行くが、彼はとうに失脚していたことが明らかになる。そこでマニはサーサーン朝を脱出し、東方宣教に成功していたアンモーのもとへ行こうとするも、サーサーン朝の警察網に捕まり、クテシフォンに引き返した。マニは教会幹部たちと話し合い、バート王とともにバハラームと謁見しようとした。クテシフォンを去るマニはパティーク(父親?)に「もう二度とここに帰ってくることはない」と告げ、アブサクヤーらとともにバート王のもとに向かった。しかしバート王はマニとの同行を拒否したため、マニたちだけで王宮に入った。バート王を召喚したら呼んでもないマニが来たことにバハラームは怒り、マニは逮捕されてしまった[14]

マニは弟子のウッズィーや3人の女性(ガンザクで病気を治した女性の姉妹?)、中央アジアから駆け付けたアンモーから世話を受けた。そして獄吏にも自らの教えを説き、また執筆活動も行っていたとされる。寒さと鎖につながれた状況の中で老齢のマニは衰弱し、釈放の要求がなされたがバハラームはそれを許さなかった。マニの最期については良く分かっていない。磔刑に処せられたという説と、生きたままを剥がれ、その後を斬られたという説がある[15]。後世のマニ教徒たちが残した文書などによると、皮を剥がされたマニが生きているという噂が残り、アラビア語逸話集の中にはワラが詰め込まれたマニの皮が、しばしばサーサーン朝統治下の市街の城門に吊るされていた、というものがある。一方、近年現われたパルティア語資料からは獄中でも自由に信者と面会できた状況が知られ、比較的穏やかな状況下で獄死したとも推測される[16][17]

マニの獄中の様子はウッズィーによって後世に伝えられた。教祖の死はマニ教徒にとっては忌まわしいものではなく、西方ではイエス・キリストの十字架になぞらえて「殉教」、東方では仏滅になぞらえて「涅槃」と称された[18]
死後

マニの死後、バビロニアに避難した弟子のシシンは教団の指揮をとり、以後、マニ教団はシリアパレスティナエジプト、ローマ帝国などへの伝道に力を入れ、多くの信者を獲得した。マニ教の典礼ではマニの受難を「ベマ」(ベーマ)といい、祭礼の日となった[15][注釈 2]

マニ教は、のちに西は北アフリカイベリア半島から、東は中国にまで広がった。マニは「教えの神髄」の福音伝道を重視し、自ら著述した教典を各言語に翻訳させ、入信者を得るために各地で優勢な宗教の教義に寄せさせた。ゾロアスター教の優勢な地域ではゾロアスター教の神々、西方ではイエス・キリストの福音を前面に据え、東方では仏陀悟りを強調して宣教するなど、各地ごとに布教目的で柔軟に用語・教義を変相させた。この結果、世界宗教へと発展したが、教義の一貫性は保持されなかった[16]
人物

マニは、芸術の才能にも恵まれ、彩色画集の教典をも自ら著しており、常にその画集を携えて布教したといわれる[16]。そのため、マニは青年時代、絵師としての訓練を受けたという伝承も生まれている[16]
教義詳細は「マニ教」を参照

マニ教の教義は、ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義、さらに仏教道教からも影響を受けているといわれる。マニ教の教団は伝道先でキリスト教や仏教を名のることで巧みに教線を伸ばした[6]

マニ教は、ユダヤ教の預言者の系譜を継承し、ザラスシュトラ・釈迦イエスは預言者の後継と解釈し、マニ自らも天使から啓示を受けた預言者であり、「預言者の印璽」であることを主張した[疑問点ノート]。また、パウロ福音主義に影響を受けて戒律主義を否定する一方で、グノーシス主義の影響から智慧認識の重要性を説いた。ゾロアスター教からは善悪二元論の立場を継承している。

マニ教の教義は諸教混交で、その宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、預言者の印璽、断食月)は、ローマ帝国やアジア各地への伝道により広範囲に広まった[15][注釈 3]4世紀には西方で隆盛したが、6世紀以降は東方へも広がり、中国では漢字で「摩尼教」と記された[6][注釈 4][注釈 5]。また、マニ教に関心を寄せた人物として、キリスト教に改宗した4世紀?5世紀教父アウグスティヌスがいる[15][注釈 6]。さらに、7世紀ムハンマドによるイスラム教成立に影響を与えた[疑問点ノート]。ムハンマドもまた「預言者の印璽」を自ら名乗った一人である[16][注釈 7][疑問点ノート]。
著作

マニは、世界宗教の教祖としては珍しく、自ら経典を書き残したが、その多くは散逸した。


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