1939年、マニュエル・ケソン大統領はマニラに代わる首都を目指し、ケソン市を設立した。ケソン市の設立は、バーナム設計によるマニラ都市計画の放棄を意味し、資金は新首都の設立に流用されることになった。第二次世界大戦では、バーナム計画の開発のほとんどが失われ、さらに1945年のマニラの戦いで10万人以上の人命が失われた。その後、1948年にケソン市が首都として宣言された。しかし、1976年には大統領令第940号により、スペイン植民地時代からほぼ一貫してフィリピン政府の所在地であった歴史的意義から、首都をマニラに再指定した。大統領令第940号は、マニラは常にフィリピン国民にとって、また世界から見て、貿易、商業、教育、文化の中心であり、フィリピンの第一の都市であったと述べている。 戦時中、ケソン大統領は緊急措置として、マニラ市とケソン市、それにカローカン、ラスピニャス、マリキナ、パシッグ、パラニャーケ、マラボン、ナヴォタス、サンフアンデルモンテ、サンペドロデマカティ、サンフェリペネリ、モンティンルパとタギッグ・パテロスの自治体とを併せ、「大マニラ市(City of Greater Manila)」を誕生させた。市長にはホルヘ・B・ヴァルガスが任命された。大マニラ市に含まれる市や自治体の市長は、その町の副市長を兼任していた。これは、ケソンの行政上の主席副官であったバルガスが、国際軍法上認められる権威ある地位を確保するためであった。大マニラ市は、日本軍によって占領地を統治するフィリピン行政委員会が設立されたことにより廃止された。ただ、大マニラ市は、現在のマニラ首都圏のモデルとなり、マルコス政権時代に設置されたマニラ首都圏知事の行政機能を担っていた。 1975年11月7日、大統領令第824号により、メトロ・マニラ(Metro Manila)が正式に設立された。1978年6月2日、大統領令第1396号により、フィリピンの首都地域(National Capital Region)は首都圏(metropolitan area)とされた。マニラ首都圏が設立された当時は、マニラ、ケソン市、カローカン、パサイの4都市と、ラスピニャス、マカティ、マラボン、マンダルヨン、マリキナ、モンティンルパ、ナヴォタス、パラニャーケ、パシッグ、サンフアン、タギッグ、ヴァレンズエラ、パテロスの13自治体から構成されていた。現在、これらの自治体は独立した公認都市となっているが、パテロスだけはまだ町(municipality)として残っている。 フェルディナンド・マルコス大統領が、妻のイメルダ・マルコスをマニラ首都圏の初代知事に任命した。イルメダは「シティー・オブ・マン」キャンペーンを展開し、フィリピン文化センター
大マニラ市の誕生
首都圏の誕生
1986年、コラソン・アキノ大統領は大統領令第392号を発し、マニラ首都圏委員会を改組・改変し、マニラ首都圏庁(Metropolitan Manila Authority)と改名した。首都圏の市長たちは、身内からこの機関の議長を選んだ。その後、1995年に共和国法7924号により再び編成され、現在のマニラ首都圏開発庁(英語版)(MMDA)が誕生した。同庁の議長は大統領が任命し、市長のような選挙で選ばれる役職を兼任してはならない。
1988年は、フィリピン国内ではマニラ首都圏の失業率が最も高く、労働雇用省(英語版)(DOLE)と国家統計局(英語版)によれば、地域の労働人口の20.1%が失業者であった。
2014年末、当時のMMDA長官フランシス・トレンティーノ(英語版)は、ラグナ州サンペドロ(英語版)を18番目の加盟都市としてマニラ首都圏に含めることを提案した。トレンティーノは2015年1月のMMDA市長会議の初会合で、同市のMMDAへの加盟を推進すると述べた。 ココ・ピメンテル三世上院議員は、法案が成立すればサンペドロを別の立法区として次の国・地方選挙で開始しようとする第3029号法案を提出した。
地理地形から、中央台地、沿岸低地、マリキナ谷の3つに分けられるパシッグ・マリキナ川水系の排水地図
マニラ首都圏は、ルソン島の南西部に位置しており、西はパシッグ川の河口から、東はマリキナ谷の高地まで続く平坦な沖積地沿いに位置する地域である。地理的には、海岸線、グアダルーペ台地、マリキナ谷、ラグーナ低地の4つのゾーンに区分される。
海岸線(Coastal Margin)または低地(Lowland)は、マニラ湾に面した平坦な低地の地域である。マニラ市、ナヴォタス、マラボン、そしてパサイとパラニャーケの西部と干拓地があり、マニラ湾に面した標高ゼロメートルからマンダルヨン、マカティ西側の標高5メートルまでの範囲に渡る。沿岸低地(Coastal Lowland)は、沖合漁業や養殖場開発の資源を持ち、この地域の様々な埋立プロジェクトは複合都市開発のためのものである。
中央台地(Central Plateau)またはグアダルーペ台地(Guadalupe Plateau)は、その強固な地理的地盤だけでなく、ルソン島の他の地域との既存のインフラ接続により、都市開発活動への適応性が最も高い地域である。主に住宅地であり、サンフアン、マカティ、ケソン市といった人口密集地や、カローカン、マンダルヨンの大部分を含んでいる。標高は20mから40mで、西側は低く、北西側では70mから100m以上になる。パシグ川沿いの地域は狭めである。
マリキナ谷(Marikina Valley)は、マリキナ川(英語版)沿いの氾濫原とバエ湖沿いのデルタ地帯である。標高はバエ湖側で2m、北側のモンタルバン側で30mである。周囲は中央台地とリサール州の山々に囲まれている。マリキナ川は工業用水や放流用水として利用されている。
ラグーナ低地(Laguna Lowlands)は、農業や養殖業に適しているだけでなく、産業活動にも適している。 マニラ首都圏は今まで、地震、洪水、台風など、さまざまな自然災害にさらされてきた。マリキナ谷断層をはじめとする活断層に囲まれており、フィリピン断層、ルバング断層、マニラ海溝、カシグラン断層などの遠くの断層も脅威である。特にヴァレンズエラ、マラボン、カローカン、ナヴォタス、マニラ市、パサイ、パラニャーケ、ラスピニャスといった低地の地域では、マニラ湾の潮流と関連して毎年洪水が起こっている。一方、マリキナ、パシグ、タギッグ、パテロスといったマリキナ谷沿いの内陸部の地域でも、ラグーナ湾に近く、土壌の排水が悪いことから、水位が浅い洪水が発生しやすい。洪水リスクは、火山岩が海抜40mから70mまでそびえるケソン市、サンフアン、マカティ、マンダルヨン、モンティンルパなどのグアダルーペ台地に沿った都市では低いとされている[8]。また、マニラには年間およそ5から7の台風が上陸する。スイス・リーの調査では、マニラは東京に次ぐ、住むのに危険な首都としてランク付けされている[9]。 ケッペンの気候区分によると、マニラ首都圏には2つの気候が存在している。大半の地域はサバナ気候(Aw)に区分され、シエラマドレ山脈の麓に位置する北東部の一部のみ熱帯モンスーン気候(Am)である。マニラは、フィリピンの他の地域と同様、全域が熱帯地域に属している。赤道に近いため、気温は年間を通じて高く、15℃以下や39℃以上になることはほとんどない。1914年1月11日の14.4℃、1915年5月7日の38.5℃など、過去には気温の極端な変動があった。 湿度は一年を通して非常に高い。マニラには12月から4月までの明確な乾季と、残りの期間の比較的長い、気温がやや下がる雨季がある。
自然災害
気候