代表曲に「ホリデイ」「ラッキー・スター」「ボーダーライン」「ライク・ア・ヴァージン」「マテリアル・ガール」「クレイジー・フォー・ユー」「イントゥ・ザ・グルーヴ」「パパ・ドント・プリーチ」「オープン・ユア・ハート」「ラ・イスラ・ボニータ」「ライク・ア・プレイヤー」「エクスプレス・ユアセルフ」「ヴォーグ」「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」「エロティカ」「テイク・ア・バウ」「フローズン」「レイ・オブ・ライト」「MUSIC」「ドント・テル・ミー」「ダイ・アナザー・デイ」「アメリカン・ライフ」「ハング・アップ」など多数のヒット曲を持つ。 1958年[18]8月16日、母の実家のあるアメリカ合衆国ミシガン州ベイシティのマーシー病院にて、8人兄妹の3番目として誕生。 父はイタリア系アメリカ人1世のシルビオ・チッコーネ(1931?)、母はフランス系カナダ人のマドンナ・ルイーズ・チッコーネ(1933?63)。幼少期を同州ポンティアック市で過ごした後、家族が増えたことにより同州ローチェスターヒルズ市へ転居した。 父は、ゼネラルモーターズのデザインエンジニア。実母は、マドンナが5歳の時乳癌で死去し、父はほどなく再婚した。母の死や、父および継母との確執は彼女の心に大きな影響を及ぼし、「プロミス・トゥ・トライ」「オー・ファーザー」などの楽曲で歌われている。一方で弟や妹の面倒もよく見ていた。習い事を幼い頃からしており、最初はピアノを習っていたが、父親にバレエを習いたいと懇願し、変えてもらった。その後、モダンダンスやジャズダンスなどのダンスも習っている。 ミシガン大学に進学したが中退し、1978年、35ドルを持ってグレイハウンドの長距離バスで郷里を後にニューヨークへ出発した。ニューヨーク到着後、タクシーの運転手にこの街で一番大きな場所へ行ってと言い、タイムズスクエアで降りたマドンナは「私はこの世界で神よりも有名になる」(神様と同じぐらい有名になるまで、私は幸せではない)と誓った。無名時代には生活のためにヌード・モデルを引き受けたりもしている。なお、ベジタリアンとなったのは、ニューヨーク移住後である。 同年、ニューヨークで、『パトリック・エルナンデス・レビュー』にダンサーとして出演。他にも数々の職に就く。この頃出演していた成人映画が有名になってからビデオで発売された。81年にソロとなり、ポップ・スターを目指すようになった[18]。83年から84年にかけては、黒人ミュージシャンのレジー・ルーカス[19]の制作によるファースト・アルバムから「ホリデイ」「ボーダーライン」「ラッキー・スター」が連続ヒットとなった。ファーストは、ソウル、ダンスのファンからも評価された。セカンド・アルバム『ライク・ア・ヴァージン』からもヒットが出たが、セカンド以降はポップス・ファンによる人気に支えられたスターになり、21世紀にいたっている。 2回の結婚歴と離婚歴があり、最初の結婚相手は俳優のショーン・ペンで、その後の再婚相手は映画監督のガイ・リッチー。マドンナはカバラ教徒だったが、ガイ・リッチーはクリスチャンであり、離婚時にはガイ・リッチーに、マドンナ側が推定7600万?9200万ドル(約60億?72億円)を支払っている[20]。
生い立ち