翌1976年には、ザ・バンドの解散コンサート「ラスト・ワルツ」に出演。ザ・バンドをバックに「マニッシュ・ボーイ」を歌う様子は、同名のドキュメント映画に記録されている。しかし彼の出演に関してはコンサートの2日前になり、マネジメント側は出演者が多すぎるとの理由で削る意向を示していた。ヘルムがこれに強硬に反対したため、結果的に予定通り出演することとなった[5]。 1977年、ジョニー・ウィンターと組んでブルー・スカイよりアルバム『ハード・アゲイン』をリリース。また、同年リリースされたウィンターのアルバム『ナッシン・バット・ザ・ブルース』のレコーディングに参加。以後、ウィンターのサポートを得て1981年までに計4枚のアルバムをリリースした。 1980年5月に来日し、新宿厚生年金会館、サンケイホール、愛知県勤労会館、渋谷公会堂を回った。これが唯一の来日ツアーであった。 1983年、イリノイ州ウェストモント
ブルー・スカイへの移籍以降
評価
1971年、1972年、1975年、1977年、1978年、1979年:グラミー賞受賞[2]。
1980年:ブルースの殿堂入り[6]
1987年:ロックの殿堂入り[3]。
2008年:「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第53位[7]。
2011年:「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト(英語版)」において第17位[8]。
2011年:「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第49位[9]。
エピソード
ローリング・ストーンズのバンド名が、マディ・ウォーターズのヒット曲「ローリング・ストーン(英語版)」に由来しているのは有名な話である。また彼らが渡米した際、チェス・レコードを訪れ、マディ本人と面会している。キース・リチャーズ曰く、その時マディはスタジオの塗装工事をしていたといい、あるインタビューでこう回想した。
「
1964年、チェススタジオでレコーディングした時の話さ。
白いオーバーオールを着てハシゴに乗っかってるおっさんを紹介されたんだ。
誰だ?ってその顔を見たら、マディ・ウォーターズだったのさ!
なんと!あのマディ・ウォーターズが俺達のスタジオのペンキ塗りをしてたんだぜ!
どうやらチェスじゃレコードの売れない奴はどんな仕事でもしなきゃいけないみたいだった。
俺達が何曲もカバーして神様だと思ってる男が天井にペンキを塗ってるんだぜ!」
《ローリング・ストーン》誌の名前がウォーターズの「ローリング・ストーン」に由来するかどうかについては諸説あるが、同誌のデイビット・ブラウン(英語版)は2017年に、雑誌の名前はローリング・ストーンズだけでなくマディ・ウォーターズの「ローリング・ストーン」とボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」、そして「転がる石に苔むさず」(英語: a rolling stone gathers no moss)ということわざにも由来していると述べている[10]。
ZZトップのビリー・ギボンズ(英語版)は、見学で訪れたマディの生家が、ハリケーンで倒壊していたため、その生家の建材を利用したギターを制作し、実際にこれを使用している。
ジョニー・ウィンターはマディのカム・バックを応援し、1977年にアルバム『ハード・アゲイン』が発表された。マディはジョニーのことを「義理の息子」と呼ぶぐらい親しい間柄だった。また、ジョニーはマディの晩年の創作活動や生活を支える手助けをしていた。
自身のバンドにギタリストとして参加したいと、売り込みに来た見どころのある若者にチェス・レコードを紹介した。その若者が、後のチャック・ベリーである。後にベリーは当時の事をこう回想した。
「
ある日俺は新車の遠乗りがしたくなって、シカゴに親戚がいるという友達のラルフと2人でシカゴへとドライブしたんだ。
ラルフの親戚の家でご馳走になった後、俺達はシカゴのサウスサイドでブルースの生演奏が聴けるクラブをハシゴしてまわった。そこでハウリン・ウルフ、エルモア・ジェームスのステージを観たんだ。
とても感動したし、興奮して聴き入ったよ!
そして、今度は憧れのマディ・ウォーターズが出演するクラブへ行ったんだ!
マディは最後のセットのラストナンバー「ガット・マイ・モジョ・ワーキング(英語版)」を演奏中だった。演奏が終わると群がるファンをかきわけ、マディのサインを貰うために突進してくれたラルフのおかげで、俺はマディと口をきくチャンスができた。
大統領か法王にお目通りするような気分だった俺は、曲の素晴らしさを褒めた後、単刀直入に「レコードを作るにはどうすればいいのか?」って聞いてみた。