マツダ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

現在の社名は、事実上の創業者である松田重次郎の姓と、叡智・理性・調和の神を意味するゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(Ahura Mazd?)にちなみ、自動車産業の光明となるよう願ってつけられた[12]。英語表記は「MAZDA」[8]。コーポレートマークの「mazda」は1975年から、「M」を模った現在のエンブレム(ブランドシンボル)は1997年から使用されている[12]

ロータリーエンジンを搭載した自動車を量産していたほか、ロードスターは「2人乗り小型オープンスポーツカー」の生産累計世界一としてギネス世界記録の認定を受けている[13]1991年には日本メーカーとしては初のル・マン24時間レースでの総合優勝を果たした[14]2002年4月1日以降は「Zoom-Zoom」のキャッチフレーズの下、走行性能とデザインを特色とした車作りに特化する戦略を進めている[15]。今後は、顧客との間に強い絆をもった「プレミアムなブランド」を目指すとしている[16]

1979年以来フォードとの提携関係が長く、1996年5月には同社の傘下に入りプラットフォームや生産施設などの共有化が進められた。リーマン・ショック以降は、フォードの経営悪化もあり、2015年9月に完全にグループから独立した[17]2015年5月にはトヨタ自動車と中長期的な提携関係を結ぶことを発表し[18][19]2017年8月には業務資本提携を結ぶことで合意[20]。相互に500億円分ずつ株式を取得し、トヨタがマツダの第2位の大株主となった[21]THS-Uの供給や、EV開発会社と北米工場の共同設立など、両社は急速に距離を縮めている。
歴史
創業・コルクから機械事業へマツダの実質的な創業者である松田重次郎(1921年頃)

1920年大正9年)1月30日広島市中島新町10番地にマツダの源流となる東洋コルク工業株式会社が設立された[22]。清谷商会という1890年明治23年)創業のコルクの製造・販売を手がける企業の経営が悪化したため、主な融資元であった広島貯蓄銀行が中心となり、融資の回収と事業の存続を図る方策として、それまでの個人経営から会社組織に改める形で設立された会社だった[23]。設立にあたっては当時の広島の主要な財界人が参画し、初代社長には互選によって広島貯蓄銀行頭取の海塚新八が就任した[24]。しかし海塚が体調不良により辞任を申し出たため、翌1921年(大正10年)3月、取締役の中で唯一経営に専念できる松田重次郎が社長に就任[22]。松田重次郎はコルク栓を製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究で加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品の製造に成功する[25]海軍から大量の受注を得て[注釈 2]業績は回復し、東京大阪にも出張所を設けて経営を積極的に展開した[25]

しかし東京に出張所を設けていたことが仇となり、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって多くの売掛金が回収不能となって経営は大きな打撃を受けた[26]。かねてから松田重次郎と親交のあった日窒コンツェルン総帥の野口遵からの融資で倒産を回避したが、不況の深刻化を受けて従業員の半分を解雇する事態にまで追い込まれ、さらに1925年(大正14年)12月の深夜の火災によりコルク工場が全焼してしまう[27]東洋コルク工業の圧搾コルク板

こうした事態を受け、松田重次郎は過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出を決意[28]。知遇を得ていた呉海軍工廠長の伍堂卓雄に支援を依頼し、日本製鋼所を通す形で注文を取り付け、資金面では野口が保証人となり[29]芸備銀行から資金を調達した[30][31]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:520 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef