マツダ・787
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レース専用エンジン[1]
1990年

マツダ767Bの13J改改の630 psから800 psを目標に開発[1]。目標の800 psを出すためには回転数を10,000rpmとする必要があったが、10,000 rpm/24時間に耐えられるトランスミッションがなかったため、最高回転数を9,000 rpmに抑え、出力を700 psとした。主な採用技術は、多段可変吸気機構(有効出力ゾーンでの500 rpm毎のステップでの可変吸気)、1ロータ3プラグ、ペリフェラルポートインジェクションセラミック・アペックスシール、ハウジング摺動面全てのサーメットコーティング等。この結果、767Bの13J改改より有効トルクを太く、かつレンジを大幅に拡大し、燃焼効率の改善によるトルクアップ(出力向上)、燃費改善、実用域のレスポンス向上を達成したが、他のグループCマシンは800 psを発揮するものが多かった。
1991年

1990年のR26Bをベースに、マキシマムパワーよりレスポンス重視とし、中・低回転域のトルクの向上、燃費向上、信頼性アップを図った[1]。主要な改善内容は、エンジン制御コンピュータのきめ細かな調整と連続可変吸気機構の採用。連続可変吸気機構は、エンジン回転数に応じた吸気管長を連続的に変動させる方式で、トルク特性がアクセル開度に対してリニアに反応する。マツダがルマンで優勝した55号車をレース終了後そのままの状態で日本に持ち帰って分解したところ、まだ500 km程度の耐久レースならこなせるほどの内部状態だったとされたが[1]、「実際にはエンジンブロー寸前だった」とする説もある(後述)。
戦歴
1990年

世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)に関しては、マツダはル・マン24時間のみの参戦。当初は全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)にて実戦テストを行う予定だったが、マシンの完成が遅れた事に加え、5月のJSPC・インターチャレンジ富士1000kmが濃霧のため中止となり、実戦を経験することなくル・マン24時間レースに参戦した。ジャッキー・イクスをコンサルタントとして招聘。レースには、常時2台の787が参戦した[1]。バックアップカーとして767Bをル・マンと富士1000kmに使用した。

6月のル・マンでは787を2台、767Bを1台投入したが、この年からサルト・サーキットのユノディエールにシケインが設置されたことに対応したマシン開発をしていなかったため、ストレート重視のマシン設計により予選決勝ともにタイムが芳しくなかった。787は2台とも深刻なトラブルによりリタイアして完走することができず、旧式の767Bが20位に終わるという不本意な結果に終わった[1]

6月 ル・マン24時間 リタイヤ(2台とも)

201号車 エンジンブロー(トロコイド面のセラミック溶射層の剥離)[1]

202号車 電装系トラブル(熱害によって、複数箇所で配線の被覆が溶解)[1]


7月 JSPC・富士500マイル 10位/失格

8月 JSPC・鈴鹿1000km 10位/リタイヤ

9月 JSPC・SUGO500km 11位/リタイヤ

10月 JSPC・富士1000km 7位/リタイヤ

1991年

WSPCがスポーツカー世界選手権(SWC)へ名称が変更。同時にレギュレーションが変更され、ル・マン24時間参戦にはSWCへの全戦参加が義務付けられた。マツダは、フランスのオレカ・レーシングに787を1台供与してSWCへ参戦させ、ル・マン24時間レースへの参戦権を確保した(日本で開催されたSWCの鈴鹿オートポリスは、マツダから2台が参戦)。トヨタ日産はSWCへの参戦を実施しなかったため、ル・マンへの参戦は不可能となった。また湾岸戦争勃発のため、当初参加を予定していたデイトナ24時間レースへの参戦は見送られた。

3月 JSPC・富士500km 787 12位/リタイヤ

4月 SWC・鈴鹿 787B:6位/787:リタイヤ

5月 SWC・モンツァ 787:7位

5月 SWC・シルバーストン500km 787:11位

6月 SWC・ル・マン24時間 787B:1位、6位/787:8位

7月 JSPC・富士500マイル 787B:4位、8位レナウンチャージカラーの55号車は、ル・マン24時間レース総合優勝を記念して永久保存されることになったため、緑とオレンジの色分け部を逆転したカラーリングの202号車が3台目の787Bとして用意され、以降のレースに使用した。

8月 JSPC・鈴鹿1000km 787B:6位

9月 JSPC・SUGO500km 787B:9位、リタイヤ

9月 SWC・マニ・クール 787:7位

10月 JSPC・富士1000km 787B:3位、4位

10月 SWC・メキシコシティ 787:9位

10月 SWC・オートポリス 787B:9位、10位

11月 JSPC・SUGO500マイル 787B:6位、リタイヤ

1991年のル・マン24時間優勝「1991年のル・マン24時間レース」も参照

787Bは、前年の1990年に787で参戦した経験から、ストレートスピード重視からコーナリングスピード重視のマシンにするため、トレッドの拡幅(メカニカルグリップ向上)などの変更を加えた改良型であり、ルマンには2台の787B(55号車と18号車)と、前年型の787が1台(56号車)参加した。55号車はレナウン・チャージカラー、18号車と56号車はマツダワークスカラーだった。55号車は、フォルカー・バイドラージョニー・ハーバートベルトラン・ガショーにより運転された[1]

本番直前のテストウィークではマシンが大ダメージを受けたため、マツダが撤退をしようとするのをオレカのボスであるユーグ・ド・ショーナックが説得して押しとどめ、オレカが一週間で直し上げて本番に間に合わせるという一幕があった[2]

レースは、新SWC規格マシン(排気量3.5 L 自然吸気エンジン搭載車(最低重量などでレギュレーション上の優遇措置が設けられた)が、初参加の走行ということで、次々とトラブルを起こしてリタイヤした。結局、メルセデス・ベンツ・C11勢(1号車、31号車、32号車)が序盤をリードしたが、55号車は夜になってメルセデス勢の後、1周遅れの4位につける。その後、メルセデスの31,32号車はトラブルから後退した[1]

早朝、34号車、35号車のジャガー・XJR-12と2位争いをしていた55号車はジョニー・ハーバートに2スティント連続担当させる勝負に出て、これに成功[1]。単独2位に浮上、しばらくこの状態が続いた。

レース終了約3時間前の12時54分、2位55号車に3周差をつけて長らくトップを走っていた、1号車メルセデス・ベンツ・C11がトラブル(ウォーターポンププーリーが破損したことによるオーバーヒート[3])で緊急ピットインし後にリタイア。午後1時4分、55号車はトップに上がった。その後2位、3位、4位を占めるジャガー勢・XJR-12は燃費に苦しみ最後までペースが上がらず、レース終盤では1周あたり3分53秒?54秒のタイムを要し追い上げるどころか55号車に置いていかれる結果となった。最後のドライバーはベルトラン・ガショーの予定だったが、コース状況を良く知っているジョニー・ハーバートが引き続き運転、3スティント連続してドライブした[1]。その後トラブルなくレース終了まで走りきり、首位を守り抜いた(レース中に消費するロータリーエンジンの潤滑用のオイル燃料の水増しではないかと他チームにクレームを付けられる場面もあったが、主催者によって退けられる)。結果、55号車が優勝、18号車が6位、56号車が8位に入った。55号車は、コースを362周走行し、距離にして4,923.2kmを走った。マシンがマツダピットに戻ってきたとき、ハーバートは長時間の運転による脱水症状で倒れ、表彰台にあがれなかった[4][5]

1991年限りでグループCのレギュレーションが変更され、ロータリーエンジンの使用が認められなくなったことで、ロータリーエンジンが参加できる最後の年に初の総合優勝を果たした(1993年から再びロータリーエンジンは参加可能になった)。

優勝した55号車はレース終了後日本に送られ、同年7月にマツダの横浜技術研究所でマスメディアを集め、公開エンジンオーバーホールが行われた。一見何の問題もないように見えたエンジンだったが、実はエキセントリックシャフトのロータージャーナルの一つに異常があり、軽量化のために開けられた3箇所の穴がクラックでつながっていたという(ただし担当メカニック以外に気づいたものはおらず、このことが明らかにされたのは31年後の2022年)。このクラックが進行していた場合、55号車は残り数分でエンジンブローによりストップしていた可能性もあった[6]


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