マッドハウス
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りんたろう色彩設計によるスタジオは「まるで幼稚園のようだ」と言われるほどアニメ界では珍しいカラフルなスタジオであったが[3]、2004年に東京都杉並区荻窪に移転。2010年1月、中野区本町に本社・スタジオを再び移転した。
沿革
1970年代 - 1980年代

東映動画のテレビシリーズに参加するとともに、出崎統と杉野昭夫のコンビによる東京ムービーのテレビシリーズを中心にした。これは東京ムービー社長の藤岡豊がマッドハウス設立にあたって資金援助した関係によるもの[1]。出崎と杉野がスタジオあんなぷるを設立して独立し、丸山正雄が社長に就いた1980年代には主にりんたろうが監督する角川書店製作の劇場向け作品やオリジナルビデオアニメ(OVA)を中心に制作していた[1]
1990年代

テレビアニメは元請スタジオの外注というスタンスで制作した作品が多かったが、1989年の『YAWARA!』を皮切りとして、1990年代からはテレビ作品に本格的に進出し、自社元請制作も行なうようになった。このほか1991年には韓国の制作プロダクション、DR MOVIEと提携。仕上工程の下請けを皮切りに、グロス請けを任せるまでになった。

1998年から放映開始された『カードキャプターさくら』(浅香守生監督作品)は、原作を見事に昇華した脚本、演出、作画、音楽に魅せられたファンを獲得。それまでOVAや映画の仕事を中心とし“ 一般向け ”や“ アニメ通好み ”という評価を得ていたマッドハウスの名を、ライトなアニメファンに周知させる同社の代表的な作品となった。

1999年12月、『D・N・A2 ?何処かで失くしたあいつのアイツ?』『Bビーダマン爆外伝』等の制作に関わった同業の株式会社パオハウスを買収。有限会社マッド・ハウスは業務をパオハウスに移管し、パオハウスは「株式会社マッド・ハウス」に商号変更した。パオハウスは『YAWARA!』を製作したキティ・フィルム落合茂一が1993年に独立創業した会社で、1999年4月の落合死去後代表を引き継いだキティグループ出身の増田弘道が引き続き2005年まで株式会社マッドハウスの代表取締役を務めた。有限会社マッド・ハウスはその後二度の商号変更を経て作品の仕上・撮影・3DCG・編集を手掛ける「有限会社マッドボックス」となった。
2000年代

世界的に評価の高い川尻、今敏らを監督陣に擁し、『アニマトリックス』など芸術性の高い作品から『ギャラクシーエンジェル』のようなマニアックな娯楽作品まで、幅広い作品を手がけ、会社としては円熟期に入った。また、『千と千尋の神隠し』などのスタジオジブリ作品に作画協力などで参加した。

2001年にはDR MOVIEに資本出資。同年、DR MOVIEと共同制作した『爆転シュート ベイブレード』よりデジタルペイント・コンポジットを導入。以降各作品順次デジタル制作に移行した。1990年代末期から業界全体で導入が進んでいた中、当初デジタル制作には慎重で、2001年まではセル画フィルム撮影による作品制作を続けてきたが、この時期に至りアニメ業界全体で急速なデジタル制作化が進展し、導入に踏み切った。

2004年2月、携帯電話向けコンテンツ制作供給大手の株式会社インデックス第三者割当増資を引き受け、同社の子会社となる[注釈 1]。同年11月、作品のクレジット等での表記と統一するため、「株式会社マッド・ハウス」を「株式会社マッドハウス」に商号変更。当時インデックス傘下にあったタカラトミーインターチャネル・ホロンインデックスミュージックアトラス(旧社)、当時タカラトミー傘下にあった竜の子プロダクション、タカラトミーと業務提携したガンホー・オンライン・エンターテイメント、その子会社となったブロッコリーなどとのメディアミックスや協業の可能性を模索した。

2005年に深夜枠作品等でかねてより取引関係にあった日本テレビ放送網バップ電通の3社、2006年にはWOWOWが第三者割当増資を引き受けた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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