マットが2歳の時に両親は離婚し、ニュートンに引越す。1988年に高校卒業後、同年にハーバード大学に進学。
10代の頃より役者を志し、ハーバード大学在学中から端役で映画やテレビに出始め、結局大学は中退した。だがこの決断を後悔している[4]。
キャリア2009年、第66回ヴェネツィア国際映画祭でのデイモン
1988年にジュリア・ロバーツ主演の『ミスティック・ピザ』で端役デビュー。1996年には『戦火の勇気』にヘロイン中毒患者の役で出演するため、2日間の撮影のために100日間で18キロの減量を行った[5][6]。この時の無理な減量のために数年の間、体調を崩すことになる[6]。
無名時代、幼馴染のベン・アフレックと共に脚本を書くことを思いたち、授業用に書いた若き数学の天才に関する脚本を映画用として完成させる。しかし、映画化にはベンに見せた1992年から完成の1997年まで、長い年月と紆余曲折を要した。そして1998年、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』としてようやく映画化され、ベン・アフレックと共にアカデミー脚本賞を受賞、アカデミー主演男優賞にもノミネートされた。
2001年、ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピットらと共演した『オーシャンズ11』に出演(2004年と2007年にも続編が公開された)。翌2002年にはアクション映画『ボーン・アイデンティティー』が大ヒット、2004年には続編も作られ、2007年に公開のシリーズ3作目『ボーン・アルティメイタム』は2億ドルを超えるヒットとなった。
2007年、『フォーブス』誌が選ぶアメリカ映画出演料当たり興収のランキングでトム・ハンクスやトム・クルーズの2倍以上の高収益俳優としてトップに輝いた。また、『ピープル』誌が選ぶ、2007年の“最もセクシーな男”に輝いた。
2007年7月25日、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名前が刻まれた。
2009年公開の『インビクタス/負けざる者たち』でフランソワ・ピナールを演じ、アカデミー助演男優賞にノミネートされた。
人物・私生活海軍軍属と記念写真を撮るマット・デイモン。ハイチ人道支援に派遣された揚陸艦キアサージにて。
共演した女優と交際することが多く、これまでクレア・デインズ(『レインメーカー』で共演)、ミニー・ドライヴァー(『グッド・ウィル・ハンティング』で共演)、またウィノナ・ライダー[7]やモデルのブリジット・ホールらと交際。
2005年に『ふたりにクギづけ』撮影中にマイアミで知り合ったアルゼンチン人の女性ルシアナ・ボザン・バロッソと結婚し[8]、彼女の娘(アレクシア)の養父となる。また、2006年6月11日には実子の第一子となる長女(イザベラ)が[9]、2008年8月20日には第二子となる次女(ジア)が[10]、2010年10月20日には第三子となる三女(ステラ)が生まれた[11]。
ケンブリッジで隣人として交流のあった歴史家、著述家で社会運動家のハワード・ジンの自伝的映画『You Can't Be Neutral on a Moving Train』と『民衆のアメリカ史(A People's History of the United States)朗読版』でナレーションを務めている。
第三世界での貧困阻止やAIDS撲滅[12]、ダルフールなどでの大規模な残虐行為の阻止を呼びかけたり[13]と幅広く慈善活動を行っている。 2002年1月、当時の恋人オデッサ・ウィットミアにクリスマスプレゼントとして45,000ドル(日本円で約590万円)のBMWを贈った。ウィットミアはこのお返しとして、映画館用の巨大なポップコーン製造機をデイモンに贈った。デイモンはさっそく、この業務用ポップコーン製造機を自宅の試写室に設置した[14]。 2002年1月、大ヒットとなった犯罪コメディ映画『オーシャンズ11』のギャラとして同映画の興行総収益の8%が後で支払われるという条件の下に、とりあえずは前金でわずかな手当てを受け取った。『オーシャンズ11』の興行総収益は国外での収益も含め5億ドルにも上り、デイモン自身に最終的に入るギャラの金額は2000万ドル(日本円で約26億4,000万円)にもなった可能性がある[15]。
金銭・逸話