マックス・フライシャー
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同年の10月に、フライシャー兄弟は『トーカートゥーン(原題:Talkartoons)』と題された新しいシリーズを発表した。このシリーズの初期作品のほとんどは第一作『Noah's Lark』の様な一話完結のカートゥーンであったが、最終的には新キャラクターである犬のビン坊(ビンボー)がシリーズの主役となった。ビン坊はすぐに彼の恋人であるベティ・ブープに取って代わられ、ベティはフライシャー・スタジオの花形となった。ベティ・ブープはアメリカン・アニメーションにおける最初の主役を演じた女性キャラクターであり、フライシャー独特の大人びた都会的な雰囲気を漂わせたキャラクターだった。

エルジー・クリスラー・シーガーの漫画キャラクター『ポパイ』のカートゥーンシリーズへの使用許諾を得た時に、フライシャー兄弟の成功はより堅固なものとなった。最終的に『ポパイ』はフライシャー兄弟が制作した最も有名なシリーズ作品となり、その成功はウォルト・ディズニーミッキーマウス物に匹敵した。1930年代後半に制作された3本のテクニカラーによる『ポパイ』の特別作品は、多くの映画館で併映作品、あるいは本編作品として上映された。この時点でフライシャーはディズニーとアニメーション界の首位の座を争うまでになっていた。

1934年に映画作品に厳しい検閲を課すヘイズ規制がハリウッドで制定された。それはアニメーション界も例外ではなく、その結果、ベティ・ブープからは色気が取り除かれ、彼女の魅力の多くは失われてしまった。この頃、他のアニメーション制作会社は、このヘイズ規制の対策として、ディズニーが製作していたシリー・シンフォニーに対抗する(いわゆる音楽を主題にした)作品を数多く製作していた。フライシャー・スタジオもそれらに負けじと、1934年に『カラー・クラシック(原題:Color Classic)』シリーズという音楽主題のシリーズを開始した。初回の『ベティのシンデレラ(原題:Poor Cinderella)』がフライシャー自身初のカラー作品となったが、フルカラーだった3色式テクニカラーは、当時ディズニーが独占契約をしていたため、方式は質の劣る2色式シネカラー(英語版)方式で撮影していた。以降の作品も1935年にテクニカラー3色法の独占契約が切れるまで質が劣るテクニカラー2色法を採用していた。

またフライシャーは、この作品の製作を開始する直前、背景に3次元の奥行きを加えたいと考えていた。ちなみにこの当時、ディズニーの元アニメーターだったアブ・アイワークスが自身初の3次元の奥行きを再現できるマルチプレーンカメラを開発していた。フライシャーはこのカメラのことに関して十分な知識は得ていたが、フライシャーはもっと立体的な背景を撮影したいと考えていた。それが『ステレオプティカル撮影法』である。それは、背景を立体模型で作成し、その手前にセル画を置いて撮影する方法である。これによって、3次元による奥行きを再現するだけではなく、背景をリアルに、より実物に近づけることが可能となった。この撮影方法は、『ベティ・ブープ』、『ポパイ』、『カラー・クラシック』といった短編シリーズのみならず、長編映画の『ガリバー旅行記(原題:Gulliver's Travels、1939年)』や『バッタ君町に行く(原題:Mr. Bug Goes to Town、1941年)のオープニングでも使用された。
後期作品

フライシャーは1934年から、長編アニメーション映画を製作したい自身の願いをパラマウント映画に何度も申し込んだ。しかし、当時アニメーションといえば実写の長編映画やニュース映画の穴埋めのような時代であった為、パラマウントはフライシャーの提案を却下し続けてきた。

しかし、ディズニーの『白雪姫(原題:Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)』の成功を知るや否やフライシャーの提案を許可した。パラマウントはフライシャーに融資を行い、節税と、1937年に痛烈な打撃を与えた組合活動を解散させる目的で、フロリダ州マイアミに大規模なスタジオを建設させた。新フライシャー・スタジオは1938年3月に開設され、初長編作品である『ガリバー旅行記(原題:Gulliver's Travels)』を皮切りに、活発な制作活動を開始した。しかし、ここでパラマウントが新たな条件を要求をしてきた。それは1939年の遅くともクリスマスまでに完成させることというもので、これはディズニーが『白雪姫』を製作するのに費やした期間のわずか?という強硬スケジュールだった。ニューヨークのスタジオにいた製作スタッフだけでは賄えきれないと考えたフライシャーはディズニーなどハリウッド出身のアニメーターを数多く呼び寄せた。また、この作品の製作には70万ドルもの予算がつぎ込まれた。

『ガリバー旅行記』はなんとか1939年のクリスマスに公開された。興行収入は327万ドルとヒットし、この作品で音楽を担当したヴィクター・ヤングアカデミー作曲賞に、また、同作品の挿入歌である『Faithful/Forever』がアカデミー歌曲賞にそれぞれノミネートされた。しかし、その物語とアニメーションの質は模倣しようとした『白雪姫』には遠く及ばなかった。『ガリバー』から次の長編アニメーション『バッタ君町に行く』までの期間に、アメリカン・コミックスーパーヒーローを題材にした高品質な連作短編『スーパーマン』が生み出された。単純に『スーパーマン(原題:Superman)』とのみ題されたこのシリーズの第一作は、5万ドル(当時の金額)の予算がつぎ込まれ、それまで上映された短編アニメーションの中で最高の作品となった。この作品は大ヒットを記録し、アカデミー短編アニメ賞にノミネートされた。

しかしながら、この成功はフライシャーの財政的な問題を解決させるには遅すぎた。マイアミの新スタジオで新規雇用されたスタッフたちは、安定した生産のために多くの作品を作り続けた。継続して制作されていた短編シリーズ『ポパイ』や1941年の『ラガディ・アン&アンディ』のアニメーション化作品など、この期間に生産された多くの短編アニメーションは高い品質を保っていた。その他のそれなりに成功した作品としては、短編シリーズ『Stone Age』や『ガリバー』の様々なスピンオフ作品がある。

パラマウントからの融資返済を迫る声がある中、フライシャーは、1940年1月に新たな長編アニメーション映画を発表した。『バッタ君町に行く(原題:Mr. Bug Goes to Town)』である。フライシャーは、前作より増して気合いが入っていた。こうして、『バッタ君町に行く』は1941年12月5日に劇場で初公開された、構想約3年、制作費は100万ドル、そして製作スタッフ総勢700人という超大作であった。

しかし、監督のデイヴは、兄たちマックスとの対立の末この映画が完成すると同時にスタジオを去ってしまった。『バッタ君』は1941年12月5日に公開されたが2日後に太平洋戦争が始まった影響もあり、1週間ほどで上映終了となった。また、マックスは『スーパーマン』シリーズの予算の関係で出資元であるパラマウントとも対立を深め、1942年にスタジオを去った。

この後、デイブ・フライシャーは兄であるマックス・フライシャーとの対立の末にコロンビア ピクチャーズの系列会社であるカリフォルニア州スクリーン ジェムズ・アニメーションスタジオの代表となるために、フライシャー・スタジオを退社した。


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