マックス・ヴェーバー(Max Weber、1864年4月21日 - 1920年6月14日[12])は、ドイツの社会学者、政治学者、経済史・経済学者(新歴史学派)[13]。マックス・ウェーバーと表記されることもある。正式な名前はカール・エーミル・マクスィミーリアン・ヴェーバー (Karl Emil Maximilian Weber) であり、マックスはマクスィミーリアンの省略形。社会学者のアルフレート・ヴェーバーは弟。
社会学黎明期のオーギュスト・コントやハーバート・スペンサーに続く、第二世代の社会学者としてエミール・デュルケーム、ゲオルグ・ジンメルなどと並び称される[14]。 ヴェーバーは1864年4月21日、プロイセン王国エアフルト[注釈 1]にて、父は政治家、母は上流階級出身の敬虔なプロテスタントの裕福な家庭に長男として生まれる。1865年、2歳の時脳膜炎にかかり、華奢でひ弱な体に不釣り合いな充血による大きい頭をしていた[15]。 1869年、エルフルトからベルリンのシャルロッテンブルク・ライプニッツ・シュトラーセへ引っ越した。並外れて早熟だったとされる[16]。12歳の時にはマキャベリ『君主論』を読み、哲学書では、スピノザ、ショーペンハウエル、カントに進んだ。少年時代は、シャルロッテンブルクの家で読書に多くの時間を費やした[15]。1879年、15歳の時、読むだけでなく資料を集め、それを元にして歴史論文「インドゲルマン諸国民における民族性格、民族発展、および民族史の考察」を書いた[15]。大学入学前に王立王妃アウグスタ・ギムナジウムで学ぶ。1882年からハイデルベルク大学法学部で法律学、ローマ法、国民経済学、哲学、歴史などを3セメスター(=一年半)学んだ[17]。ヴェーバーはハイデルベルクでは学生組合に参加し、決闘を行ったりフェンシングを訓練したり、仲間とビールを飲み歩いたりして、痩せていた体型もむしろ太り気味になった[18]。またハイデルベルクには、母ヘレーネの姉のイーダが歴史家のヘルマン・バウムガルテン
生涯
1889年、ベルリン大学で「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」という論文(後に合資会社についての考察も追加されて「中世商事会社(合名・合資会社)史」という論文になった)[24]で法学博士の学位を取得、論文の審査を傍聴しヴェーバに質問して議論したテオドール・モムゼンより、「<息子よ、私の槍を持て、私の腕にはもうそれは重すぎる>と誰にもまして私が言いたいのは、私の高く評価するマックス・ヴェーバーに向かってであろう。」という祝辞を送られた[25]。この「中世商事会社(合名合資会社)史」と2番目の論文として農村地理学者のA・マイツェン(ドイツ語版)に献呈された「ローマ農業(土地制度)史?国法と私法においての意味付けにおける」によって商法とローマ法の教授資格も得、1892年にはベルリン大学の私講師となった。この年、社会政策学会が企画したドイツ全土での農業労働者調査の資料整理と総括について東エルベの部分を委嘱され(この地域は低賃金のポーランド人農業者の流入によりユンカー経営が脅かされており、もっとも政治的な重要性が高かった)、それが調査報告書である「ドイツにおける農業労働者の諸事情」の第三巻「東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態」として刊行された[26]。1893年には、マリアンネ・シュニットガーと結婚する[27]。翌1894年には、30歳でフライブルク大学の経済学正教授として招聘される。