マックス・ウェーバー
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またこの年、セントルイス万国博覧会の際に開かれた学術会議への出席のためアメリカに旅行し[31]、そのついでにアメリカのプロテスタント諸派を調査。ヴェルナー・ゾンバルトやエドガー・ヤッフェ(ドイツ語版)らと共に、「社会科学・社会政策雑誌」(Archiv fur Sozialwissenschaft und Sozialpolitik)の編集に従事し始める。

1905年には第一次ロシア革命に際し、ロシア語を習得。翌1906年、ロシア革命に関する諸論文を執筆・公表する[32]。また、1910年にはハイデルベルクのネッカー川の畔の家に移り[33]、知的サークルの中心的存在として、エルンスト・トレルチカール・ヤスパースらと交わる。1910年、「経済と社会」に含まれる諸論文の執筆を開始。1911年には「世界宗教の経済倫理」の執筆を開始した。

1914年、第一次世界大戦勃発。この大戦の引き金となったセルビア人青年によるオーストリア皇太子暗殺の報を聞いたとき、ヴェーバーはしばらくの間沈痛な面持ちで黙想した後、「神よ、われわれを地獄に落とす愚か者たちからわれわれを守りたまえ」と発した[34]。活発に政治的発言を行うのと同時に、翌1915年にかけてハイデルベルクの陸軍野戦病院で軍役を行う。1日13時間ずつ、1年間に2日しか休みを取らなかった[34]。このころには比較宗教社会学に取り組み、1915年には「儒教道教」、1916年から1917年には「ヒンドゥー教仏教」を発表。1917年から1919年にかけては「古代ユダヤ教」を発表している[35]臨終の床に伏すヴェーバー

軍務を退いた後、学問・研究に専心する傍ら「フランクフルト新聞」に、ヴェーバーが戦争を通じて見て取ったドイツ政府と議会システムの根本的な欠陥を指摘した政治論文を発表した。論文は4月から7月にかけて分載された[36]。「国家社会学の諸問題」(1917年10月25日、ウィーン、翌日のウィーンの Neue Freie Presse に掲載[37])、「職業としての学問」(11月7日、ミュンヘン)を講演。2年後の1919年11月に講演冊子を出版。1918年、ウィーン大学に招聘され、ハイデルベルク大学以来の講義に立ったが、体調悪化により半年で辞任している[38]

1918年11月にドイツ革命が起きてドイツ帝国が崩壊し敗戦を迎えると、フリードリヒ・ナウマンらとともにドイツ民主党を結党し選挙に出馬したものの、比例代表の順位が低く当選しなかった[39]。5月に新聞分載の政治論文を加筆し『新秩序ドイツの議会と政府』が刊行された[36]。1919年、ミュンヘンにて「職業としての政治」(1月28日)を講演[40]、同年に講演冊子を出版。また同年、ミュンヘン大学に招聘を受け、講義を受け持った[41]。1920年6月14日、ミュンヘンスペインかぜに因ると思われる肺炎のため56歳で死去した[42]
主な業績

ヴェーバーは、西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理は「合理性」であるとし、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放(die Entzauberung der Welt)」と捉え、それを比較宗教社会学の手法で明らかにしようとした。[43]そうした研究のスタートが記念碑的な論文である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年?1905年)である。この論文の中で、ヴェーバーは、西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、主としてカルヴィニズムにおける宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化であるとした。この論文は、大きな反響と論争を引き起こすことになったが、特に当時のマルクス主義における、「宗教は上部構造であって、下部構造である経済に規定される」という唯物論への反証としての意義があった。[44]

その後、この比較宗教社会学は、「世界宗教の経済倫理」という形で研究課題として一般化され、儒教道教ヒンドゥー教仏教、古代ユダヤ教、の研究へと進んだ。しかし、原始キリスト教イスラム教カトリックへと続き、プロテスタンティズムへ再度戻っていくという壮大な研究計画は、本人がスペイン風邪に因ると思われる肺炎で命を落としたことで未完に終わった[注釈 4]。イスラム教については、「ヒンドゥー教と仏教」の中での言及[45]や、「宗教社会学」の中での言及[46]など包括的な著作にはまとまっていないが、他宗教との比較が可能なレベルまでは研究している。妻マリアンネと(1894年)

一連の宗教社会学の論文と並んで、ヴェーバーが行っていたもう一つの大きな研究の流れは、「経済と社会」という論文集としてまとめられている[注釈 5]。これは、ヴェーバーが編集主幹となり、後に「社会経済学綱要」と名付けられた社会学経済学の包括的な教科書に対し、1910年から寄稿された論文集である。この論文集も、最終的にはヴェーバー自身の手によって完成することはなかった。彼の没後、妻であったマリアンネ・ヴェーバーの手によって編纂・出版されたが、このマリアンネの編纂については、批判が多い。[48]その後、1956年と1976年にヨハネス・ヴィンケルマンによる再編纂版も出ているが、本来ヴェーバーが目指していたと思われる、あるべき全体構成については、今なお議論が続いている。[49]この「経済と社会」は、教科書的・体系的な社会学を構築しようとしたのと同時に、宗教社会学における「合理化」のテーマを、比較文明史・経済史における特殊・個別事例の巨大な集積に照らし合わせて検証していくケーススタディ(Kasuistik、決疑論)を行ったものとしても位置づけられよう。[50]また、「経済と社会」の中の「支配の諸類型」における、正当的支配の三つの純粋型、すなわち「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」は社会学や政治学の分野で広く受け入れられることとなった。

また、ヴェーバーは、社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。特に、人間の内面から人間の社会的行為を理解しようとする「理解社会学」の提唱が挙げられる。さらには、純理論的にある類型的なモデルを設定し、現実のものとそれとの差異を比較するという「理念型(Idealtypus)」も挙げられる。[51]また、政治的価値判断を含む、あらゆる価値判断を学問的研究から分離しようとする「価値自由(Wertfreiheit)」の提唱も、大きな論争を引き起こした。[52]

ヴェーバーは、ハイデルベルクでの知的サークルを通じて、年長の法学者ゲオルグ・イェリネック、哲学者ヴィルヘルム・ヴィンデルバント、同世代の神学者エルンスト・トレルチや哲学者ハインリヒ・リッケルト、さらには若年の哲学者カール・ヤスパースや哲学者ルカーチ・ジェルジ(ゲオルク・ルカーチ)らと交わり、彼らに強い影響を与えた[53]


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