マックス・ウェーバー
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ヴェーバーは1864年4月21日、プロイセン王国エアフルト[注釈 1]にて、父は政治家、母は上流階級出身の敬虔なプロテスタントの裕福な家庭に長男として生まれる。1865年、2歳の時脳膜炎にかかり、華奢でひ弱な体に不釣り合いな充血による大きい頭をしていた[15]

1869年、エルフルトからベルリンシャルロッテンブルク・ライプニッツ・シュトラーセへ引っ越した。並外れて早熟だったとされる[16]。12歳の時にはマキャベリ君主論』を読み、哲学書では、スピノザショーペンハウエルカントに進んだ。少年時代は、シャルロッテンブルクの家で読書に多くの時間を費やした[15]。1879年、15歳の時、読むだけでなく資料を集め、それを元にして歴史論文「インドゲルマン諸国民における民族性格、民族発展、および民族史の考察」を書いた[15]。大学入学前に王立王妃アウグスタ・ギムナジウムで学ぶ。1882年からハイデルベルク大学法学部で法律学ローマ法、国民経済学、哲学、歴史などを3セメスター(=一年半)学んだ[17]。ヴェーバーはハイデルベルクでは学生組合に参加し、決闘を行ったりフェンシングを訓練したり、仲間とビールを飲み歩いたりして、痩せていた体型もむしろ太り気味になった[18]。またハイデルベルクには、母ヘレーネの姉のイーダが歴史家のヘルマン・バウムガルテン(ドイツ語版)に嫁いで住んでおり、ヴェーバーはヘルマンの歴史学のゼミナールに参加したり、従兄弟・従姉妹のオットーやエミーと親交を結んだ。特にエミーとは恋仲になりかなりの数の手紙をやり取りしたが、二人が結ばれることはなかった[19]。その後シュトラスブルク大学ベルリン大学(当時の名称でフリードリヒ・ヴィルヘルム大学ベルリン)、父親の母校であるゲッティンゲン大学でローマ法や商法法制史、ドイツ国法・行政法、ドイツ団体法、農業経済史などを学んだ[20]。1883年にはシュトラスブルク[注釈 2]にて予備役将校制度の志願兵として1年間の軍隊生活を送る[注釈 3]。将校任官試験を最優等の成績で合格し、予備役将校の資格を持つ下士官に昇進した[22]。1886年には司法試験に合格して司法官試補の資格を得、1887年から1891年まで裁判所に勤務しながらベルリン大学で学究生活を続けた[23]

1889年、ベルリン大学で「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」という論文(後に合資会社についての考察も追加されて「中世商事会社(合名・合資会社)史」という論文になった)[24]で法学博士の学位を取得、論文の審査を傍聴しヴェーバに質問して議論したテオドール・モムゼンより、「<息子よ、私の槍を持て、私の腕にはもうそれは重すぎる>と誰にもまして私が言いたいのは、私の高く評価するマックス・ヴェーバーに向かってであろう。」という祝辞を送られた[25]。この「中世商事会社(合名合資会社)史」と2番目の論文として農村地理学者のA・マイツェン(ドイツ語版)に献呈された「ローマ農業(土地制度)史?国法と私法においての意味付けにおける」によって商法とローマ法の教授資格も得、1892年にはベルリン大学の私講師となった。この年、社会政策学会が企画したドイツ全土での農業労働者調査の資料整理と総括について東エルベの部分を委嘱され(この地域は低賃金のポーランド人農業者の流入によりユンカー経営が脅かされており、もっとも政治的な重要性が高かった)、それが調査報告書である「ドイツにおける農業労働者の諸事情」の第三巻「東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態」として刊行された[26]。1893年には、マリアンネ・シュニットガーと結婚する[27]。翌1894年には、30歳でフライブルク大学経済学正教授として招聘される。フライブルクの同僚には哲学者のハインリヒ・リッケルトがいた。1895年には、フライブルク大学で教授就任講演「国民国家と経済政策」を行うが、この講演は良くも悪くも大きな反響を引き起こした[28]。1896年にはハイデルベルク大学に招聘される。

1898年、実父との確執とその直後の死によって神経を病み、大学を休職し療養生活に入った[29]。この病気は長引き、1903年には病気のためハイデルベルク大学の教職を辞して名誉教授となる。1904年には新たな学問活動を再開し、この年から翌年にかけて「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表[30]。またこの年、セントルイス万国博覧会の際に開かれた学術会議への出席のためアメリカに旅行し[31]、そのついでにアメリカのプロテスタント諸派を調査。ヴェルナー・ゾンバルトやエドガー・ヤッフェ(ドイツ語版)らと共に、「社会科学・社会政策雑誌」(Archiv fur Sozialwissenschaft und Sozialpolitik)の編集に従事し始める。

1905年には第一次ロシア革命に際し、ロシア語を習得。翌1906年、ロシア革命に関する諸論文を執筆・公表する[32]。また、1910年にはハイデルベルクのネッカー川の畔の家に移り[33]、知的サークルの中心的存在として、エルンスト・トレルチカール・ヤスパースらと交わる。1910年、「経済と社会」に含まれる諸論文の執筆を開始。1911年には「世界宗教の経済倫理」の執筆を開始した。

1914年、第一次世界大戦勃発。この大戦の引き金となったセルビア人青年によるオーストリア皇太子暗殺の報を聞いたとき、ヴェーバーはしばらくの間沈痛な面持ちで黙想した後、「神よ、われわれを地獄に落とす愚か者たちからわれわれを守りたまえ」と発した[34]。活発に政治的発言を行うのと同時に、翌1915年にかけてハイデルベルクの陸軍野戦病院で軍役を行う。1日13時間ずつ、1年間に2日しか休みを取らなかった[34]。このころには比較宗教社会学に取り組み、1915年には「儒教道教」、1916年から1917年には「ヒンドゥー教仏教」を発表。1917年から1919年にかけては「古代ユダヤ教」を発表している[35]臨終の床に伏すヴェーバー

軍務を退いた後、学問・研究に専心する傍ら「フランクフルト新聞」に、ヴェーバーが戦争を通じて見て取ったドイツ政府と議会システムの根本的な欠陥を指摘した政治論文を発表した。論文は4月から7月にかけて分載された[36]。「国家社会学の諸問題」(1917年10月25日、ウィーン、翌日のウィーンの Neue Freie Presse に掲載[37])、「職業としての学問」(11月7日、ミュンヘン)を講演。2年後の1919年11月に講演冊子を出版。1918年、ウィーン大学に招聘され、ハイデルベルク大学以来の講義に立ったが、体調悪化により半年で辞任している[38]


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