マチュ・ピチュ
[Wikipedia|▼Menu]
一方、遺跡の背後に見える尖った山はワイナ・ピチュ(Huayna Picchu、若い峰)で、標高2720m[3][4]。山頂には神官の住居跡とみられる遺跡があり、山腹にはマチュ・ピチュの太陽の神殿に対する月の神殿が存在する。

この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。

熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。南緯13度で、10月から翌年4月までの長い雨季と5月から9月までの短い乾季に分かれる。行政上クスコ県に属しており、クスコの北西約70kmに位置する。2015年の第39回世界遺産委員会終了時点でペルー国内に12件あるユネスコ世界遺産のうちでは、クスコとともに最初(1983年)に登録された。詳細は「マチュ・ピチュの歴史保護区」を参照

周辺地域はアンデス文明が発達していたが文字を持たないため、未だに解明されていない多くの謎を持つ。2007年7月、新・世界七不思議の1つに選ばれた。
ハイラム・ビンガム3世の遺跡調査記録発見された翌年の1912年に撮影されたマチュ・ピチュ滞在中のハイラム・ビンガム3世

アメリカ探検家ハイラム・ビンガム3世は、1911年7月24日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を調査して世界に発表した。

ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『ナショナル・ジオグラフィック1913年4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽に処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。

マチュ・ピチュとはビンガムがその名前で世界に紹介しただけで、間違えて広まってしまったという説がある。ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュ・ピチュと答えたことで遺跡の名前がマチュ・ピチュであると間違って伝わった、という説である。クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日に遺跡の存在を確認しており、ビンガムがまだペルーに到着していなかった1904年の地図帳には、ワイナピチュという地名でインカの遺跡があることがすでに記載されていた。1912年にビンガムが地元の地主の関係者から遺跡がワイナピチュと呼ばれていることを伝えられていたという話もある。16世紀後半の古文書にワイナピチュと呼んでいた遺跡を地元の先住民が再開発しようとしていたという記録も残っている。ビンガムは、発見者ではなく、既に地元では存在が知られていた遺跡を確認して、最初に学術調査をしただけである。

ビンガムはイェール大学の教職を辞してからコネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後40年近くも残っていた。それは1つに彼の情熱的な文章のせいであった。
人口は最大でも750名

この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであった。

遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。

この都市はインカの王パチャクティ(Pachacuti)の時代の1440年頃に建設が着手され、1533年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々の生活が続いていた。建造から500年を経てなお健在な急斜面の石積み

ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ (Dr. Alfredo Valencia Zegarra)とコロンビアの水利技術者ケネス・ライト(Kenneth Wright)による調査では、この都市の建設に要した努力の60%は急傾斜の城壁の見えない土台などの部分に傾注されており、降雨量の多いこの地で、積み上げられた石積みが500年もの間崩れないのは、農耕のためだけに斜面を整地したのではなかった。渓谷から細かい砂と表土を運び上げ、現在見える石積みの下に、うね状に盛り上げた表層を造ったとしている。
神をまつる神殿としての役割月の神殿段々畑

なぜこのような急峻な山の上に造ったかという質問に対して、ラファイエット単科大学のナイルズ(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは……圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。

イェール大学の近年の研究成果では、高地であり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に最も適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところである、という点が場所選定の理由として挙げられている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef